NHK総合で今夜7時30分から「ファミリーヒストリー」の北野武編が放送される。著名人のルーツをたどる同番組は、多くの新事実を綿密な取材によりあきらかにしてきた。公式サイトによれば、今回の武編では、祖母に関する手がかりが東京大学で発見されたことから、それまで謎だらけだった北野家のルーツが次々に浮かびあがるという。

武はこれまでにも自分の家族について折に触れて語ってきた。自伝的著作『たけしくん、ハイ!』や『菊次郎とさき』がテレビドラマ化もされたこともあり、両親や少年時代の話はよく知られている。しかし、彼自身が語ったものを読んでいると、たしかに謎も多い。

父・菊次郎は、母・さきにとって二番目の夫らしいのだが、武はそのことを大学生のころに長兄から教えられた。また、菊次郎の兄弟はみな母親が違ったらしい。しかし、くわしいことは兄も母も言いたがらなかったという(北野武『孤独』)。


奉公、婚約者の死、夜逃げ……母・さきの波瀾の半生


母親のさきは武とCMで共演したり、武が事件などを起こすたびにマスコミにコメントを求められたりして、表に出てくることもしばしだった。1988年には『ここに母あり 北野さき一代記』と題し自らの半生をつづった著書も刊行している。それを読むと、武の発言とは食い違う点もちらほら出てくる。たとえば、武は前掲の『孤独』のなかで「おふくろの最初の旦那は中尉だったらしい」と話しているが、さきの著書や北野大(武の次兄)の著書『なぜか、たけしの兄です』によれば、実際には明治大学を出てセメント会社に勤めるサラリーマンだったという。そもそもその人は、挙式の直前、盲腸炎で急死してしまい、実際には結婚までいたらなかった。

その婚約までのいきさつというのもなかなか複雑だ。さきの生年からして、戸籍上は明治37(1904)年となっているものの、じつは父親が出生届を役場に出すのを数年忘れていたので本当のところはよくわからないという。武の祖父にあたるその父親・小宮岩吉は千葉・市原の素封家だったが、やがて破産。そのため、さきは13歳にして東京へ屋敷奉公に出ざるをえなかった。

裁縫ひとつまともにできなかったさきは苦労しながら働くうち、北野うしという三味線の師匠と出会う。例の婚約相手の母親だ。かつては竹本八重子の芸名で娘義太夫のスターだったうしは、そのころにはさきが奉公する屋敷の娘たちに三味線を教えていた。そこでうしはさきを見初め、自分の息子との結婚話を持ちかけたのである。息子はうしと海軍中尉とのあいだに生まれたが、相手には正妻がおり、けっきょく認知はしてもらえなかったらしい。武が「おふくろの最初の夫は中尉」と言っていたのは、おそらくさきの婚約者の実父と混同したのだろう。

息子の死で結婚はならなかったが、うしはさきがこのまま家からいなくなれば自分は天涯孤独になってしまうと引き止め、さきを養女にした。それが1922年のこと。このときさきは北野姓に改め、やがてうしが日暮里に持っていた土地に洋品店を出してもらい働くようになる。

なお、『ここに母あり』によると、うしは四国の大店の出身だが、さきと同じく家が没落して、三味線で食い扶持を稼ぐようになったという。今回の「ファミリーヒストリー」には「北野武〜父と母の真実 阿波国徳島に何が!〜」とのサブタイトルがついていた。きっとうしの生い立ちについて何か新事実があきらかにされるに違いない。


うしは明治天皇の御前で三味線を弾いたこともあるというから、腕前はたしかだったのだろう。さきは『ここに母あり』のなかで、兄二人がちゃんとした職業に就いたのに、武だけが芸人になってしまったのは、《おばあさんの血がそうさせたんだとしか思えませんよ》と語っている。その言葉どおり、武とうしはたしかに血はつながっていた。ただし、武の父・菊次郎はうしの実の子供ではなく甥だという。

さきは洋品店が関東大震災(1923年)も乗り切ってうまくいき始めると、養母のうしに勧められるがままに、菊次郎が婿養子に入る形で結婚している。うしと菊次郎は長らく生き別れとなっていたが、浅草で偶然、再会したらしい。菊次郎の父親は漆塗りの職人で日本橋にも店を出していたが、放蕩でつぶしたあげく、急死してしまう。このあと母の再婚相手から疎まれた菊次郎は、そのまま奉公に出され、見様見真似で父と同じ漆塗り職人となっていた。

ところが、菊次郎は結婚したとたん、これまた父親ゆずりの放蕩ぶりでさきの店をつぶしてしまう。すでに二人のあいだには1928年に長男が生まれていた。武の18歳上の長兄である。こうして家族は夜逃げ同然で足立区に移り住むこととなった。武もその姉と次兄の大もここで生まれている。

この間、さきは内職で稼いでせっせと貯金し、太平洋戦争の開戦前後には家を建てた。菊次郎も節句のときに使う弓矢や、釣りの浮きなどに漆を塗る仕事をしていたが、そのうちにペンキ塗りに鞍替えする。戦時中は戦闘機の塗装のため山梨まで徴用されたという。

以上、武の生まれるまでの両親の足跡を、これまで公表された情報をもとにたどってみた。「ファミリーヒストリー」では、もっとくわしいことがあきらかになることだろう。今回がテレビ初登場という武の姉は、晩年の母親を引き取り、1999年に亡くなるまで面倒を見た張本人だけに、その証言も気になるところだ。

ペンキ職人になっても仕事が回ってこなかった父


じつは、北野武については私も今年、「ビートたけしが演じた戦後ニッポン」と題する連載をウェブサイト「現代ビジネス」で発表し、目下その内容にさらに手を加えて書籍化するため色々と調べているところだ。武の実家のあった足立区の島根・梅島界隈や郷土博物館にも足を運んでみた。

武が生まれ育ったのは、かつて島根町と呼ばれた地区だ。1960年代ぐらいまでの地図を見ると、北野家の周辺には田畑が広がっていたことがわかる。島根町はまた、農業とともに職人の町でもあったという。

《うちの近所は、お百姓さんと職人しかいなかったようなところだから。向こう三軒両隣も左官屋、大工、水道橋、サッシ屋とかだしさ。もう、つるんで仕事してるんだもん》(北野武、前掲書)

北野家の隣りに住む工務店の一家とは家族ぐるみのつきあいで、父・菊次郎も建築の刷毛仕事を請け負っていた(足立区立郷土博物館編『足立風土記稿――地区編5 梅島』)。

もっとも菊次郎は、足立区に引っ越してきてペンキ塗りに職替えしてからも、本来は漆塗り職人ゆえ、地元の職人たちには素人と軽んじられ、なかなか仕事を回してもらえなかったようだ。北野大によれば、当時はまだカラーのトタンも合板もなかったので、家を建てるときには屋根から樋(とい)、羽目板、廊下、ときには壁までペンキ塗りの仕事はいくらでもあり、それを5、6軒も請け負えばひと月は楽に暮らせたという。それにもかかわらず、菊次郎が家に金を入れられなかったのは、もともとの放蕩癖に加えて上記のような事情もあったのだ(北野大、前掲書)。

それでも菊次郎はしだいに地元の職人たちに受け入れられていったのだろう。足立区立郷土博物館には、区民が寄贈した築棟(ちくとう。建築関係者が上棟式で掲げる棟札の一種)が所蔵されている。これは1964年1月に足立区島根町で掲げられたもので、そこには大工や鳶ら建築職人の連名とともに、職方として瓦、ガラスや左官などに交じって「ペンキ 北野」の名も見える。いうまでもなく菊次郎のことだ(この棟札の写真は前掲『足立風土記稿』に掲載されている)。

1964年といえば東京オリンピックの年で、高度成長期の真っただ中だ。このころになると島根町周辺も、田畑や池をつぶして住宅地へと変貌しつつあった。宅地造成のため、重い槌(つち)を滑車で上げ下ろしして地固めをするヨイトマケと呼ばれる作業に近所の主婦たちがよく従事していたという。武の母親もそのひとりだった。

北野家ではすでに長兄が戦後早くに大学を出てすぐ勤めに出て、家計を支えるようになっていた。それでもさきは内職を続け、さらに西新井大師の団子屋でのアルバイト、そしてヨイトマケなどをしながら、それらの収入で子供たちの学費をまかなっていたのである。歌手・俳優の丸山(現・美輪)明宏が「ヨイトマケの唄」をリリースし、ヒットとなったのは、ちょうど武が明治大学に入学した1965年から翌年にかけてのことだった。この歌について武は最近、次のように冗談めかして語っている。

《あれが悲しい歌とは全然思わなかった。したら美輪(明宏)さんが「ヨイトマケの子供、きたない子供」って歌って、「あ、俺んちきたない子供だったんだ!」って初めて気がついたっていう(笑)》(北野武『やり残したこと』)

美輪明宏の歌をまるで地で行くように、母・さきはヨイトマケで稼いだ金で3人の息子たちを大学まで行かせた。また、「ヨイトマケの唄」に出てくる子供はエンジニアとなったが、北野家の兄弟も、母親に大学に行くなら理系、それも技術が身につけられる機械関係しかないと切望され全員工学部へ進んだのである。

60年代に入り、島根町を横断する形で環状七号線(環七)の建設が進められる。この間、1966年には、島根町は環七を境に北側は島根、南側は梅島と住居表示が変更された。環七建設のため周囲の農家が土地を売り金持ちになっていくのを見て、菊次郎は「うちも環七になっちゃうぞ、金が入るぞ」と期待していたという。が、けっきょく環七は北野家の南側2メートル先を通ることになり、恩恵にはあずかれなかった。それどころか往来する車の排ガスのせいで、洗濯物が干せなくなる。

そのころには武は家を出て、東京都心に住むようになっていた。やがて大学にも通わなくなる。それでもさきは末っ子の彼のため、学費に加え、どうやって探し当てたのかアパートの家賃まで払い続けた。武はそんな母親の呪縛から何とか抜け出そうともがき、職を転々とした末、やがて浅草へとたどり着く。彼の芸人人生はここから始まったのである。
(近藤正高)