年末で何かと落ち着かない時期ですが、1つクイズを。

 「まあるい緑の山手線」というコマーシャルソングが昔ありましたが、山手線が「丸く」輪になったのは、いったいいつからのことだと思いますか?

 日本最初の鉄道開業は明治5(1872)年、新橋・横浜間に蒸気機関車が走ったときと言われます。このルートだと、新橋から品川を通って、今で言う京浜東北線のルートは繋がっているけれど、その隣、大崎から先の山手線はまだ繋がっていない。

 どんな経緯をたどって、山手線は今見るような「まあるい」緑の輪っかになったのか?

浮かぶ空中鉄路

 いきなり話がローカルになりますが、JR御茶ノ水駅のホームは、非常に不思議な形をしています。端っこの方に謎の「段差」があるのです。

御茶ノ水駅の神田側ホーム:左の中央線側と右の総武線とで1メートル近くの段差がある


 子供の頃、この段差に腰かけて、乗り換えの電車を待ったので、実はこの段差、私には懐かしいものでもあります。

 荻窪の家から、父が入院していた三井記念病院のある秋葉原まで通うのに、御茶ノ水で乗り換えねばならなかった。

 1971年のことですから今から45年も前ですが、当時もしっかり、この段差は存在しており、小学1年生だった私にはちょうど腰かけるのに都合のいいサイズでした。

 どうしてこんな段差があるのか。その理由は子供の目にも明らかなものでした。行き先の線路の高さが違うのです。

 赤い電車、中央線が進む先の神田駅方向は、背の低いレンガ造りの橋脚の上に線路が伸びています。

 これに対して、黄色い電車、総武線が進む先の秋葉原は背の高い橋脚の上に乗っている。これは、秋葉原駅から長い階段を降りて昭和通りを渡って病院に通ったので、とてもクリアに体感することができました。

 実は、中央線と総武線は2階建てみたいに線路が走っている高さが違うんですね。

 御茶ノ水に関して言えば、その真下をちょうどお堀端で地上に出て来た地下鉄丸の内線が走っており、さらに地下深くには地下鉄千代田線も走っている。

 実は東京の線路は、空中で相当入り組んだ構造になっている。日頃あまり意識しない、こんなことにあることがきっかけとなって、気がついたのでした。

C字型だった山手線

 鉄道ファンには常識に属することかもしれませんが、私が最近初めて知ったことの1つに「赤羽線」の由来があります。

秋葉原駅からお茶お水方向を望む。オレンジ色の中央線が「1階下」を走っているのがよく分かる


 山手線の左上角のターミナル駅、池袋からほんの数駅しかない「赤羽」までの区間をかつては「赤羽線」と呼んでいた。

 今では埼京線の一部ですが、まるで盲腸か何かみたいにちょろっとついているのに、独立した線の名前がついていて、子供の頃、と言っても中学時代以降ですが、池袋をよく通っていたので、不思議でした。

 実はこの「赤羽線」が、本来の「山手線」本線だったと言うのです。1885年、当時の私鉄、日本鉄道が敷設した「山手線」は赤羽―新宿―品川を結ぶ、まさに東京の「山の手側」を南北に結ぶ、ほとんどまっすぐな路線だった。

 新橋―横浜が開通してからいまだ13年、日本は松方デフレの後、殖産興業に邁進し始める時期でした。

 同じ1885年、日本鉄道は東京と埼玉の熊谷を結ぶ路線を開通します。このときできたのが東京を代表するターミナル駅「上野」でした。上野から南側には1890年、当時は青物市場=やっちゃばだった秋葉原に貨物駅を作り、南に延伸します。

 一本棒の山手線が次に「弧」に近づくのは1903年、日清戦争以降で日露戦争直前の時期、常磐線の始発駅、田端と池袋を結ぶ、北辺の支線ができたときのことでした。池袋もこのとき駅が誕生、それまでは「目白と板橋の間の信号所」に過ぎなかったそうです。

 日露戦争後の1905年には常磐線の日暮里―三河島間が開通し、秋葉原―上野―日暮里―田端―池袋・・・と北側が接続します。

 明治末年には、新橋から南下、品川から北上して新宿、池袋、田端、上野、秋葉原とつながる「C字型」の山手線になりましたが、そのまままっすぐ繋がったわけではないんですね。

「の」の字の山手線

 他方、山手線の南側からの接続はどうだったかと言うと、ここでは「中央線」(中央本線)が大事な役割を果たしているのですね。

 遡って1889年、新橋を起点に神戸まで官営鉄道が開通します。このとき、南や西に向かうターミナル駅、新橋と、東北に向かうターミナル、上野駅を結ぼうという最初の計画が立てられました。

 まだ北辺は繋がっていませんでしたが、山手線の東側を結ぶ線路はこのときイメージが固められ、新橋と上野の真ん中に大きな停車場の計画が立てられます。

 日清・日露の両戦争を経て19年後の1908年に皇居前の空き地に大きな停車場の建設着工、結局明治時代のうちには完成せず、大正3(1914)年の暮れに開業したのが、現在の東京駅にほかなりません。

 東京駅から西に向かう中央線は1919(大正7)年に神田駅が誕生、ここに至って「山手線」は「中野始発―東京―品川―新宿―上野」という、新宿でクロスする「の」の字型の運転をしていたというのですね。

 私の本籍地は中野で、中野駅は総武線の中野止まりもあり、保線区のようなものも長年見てきましたが、まさか「山手線」のターミナルであった時期があったとは・・・調べてみて驚いた次第です。

 この時点でもまだ切れていた「環」の部分とは、実は先ほど写真でお目にかけた「神田」と「秋葉原」貨物駅間。旅客運転という意味では、神田―上野間が繋がっていなかった。

 これが繋がる契機は、この後4年後に訪れました。

再開発を考える

 1923年9月1日11時58分、関東地方を激烈な地震が襲いました。言うまでもなく関東大震災です。震災は単に地震というだけでなく、2次災害の被害が甚大でした。

 家屋の倒壊、火災、190万人が被災し10万5000余人が死亡、さらには災害時の異常心理とパニックから朝鮮半島系の人々が虐殺されたり、この機に乗じて反政府分子を一掃しようと陸軍が大杉栄一家を惨殺〔甘粕事件〕など、様々な2次的事件を巻き起こしました。

 このとき、新橋、有楽町、上野などの主要な駅が焼失、その復興とともに、山手線の環状高架化工事が進められ、1925年11月1日、新駅である御徒町、秋葉原旅客駅の開業と共に、山手線は初めて環状運転を開始しました。

 「山の手」側だけでなく、下町も含む東京旧市街を外輪状に結ぶ鉄路として完成することになったのです。

 御茶ノ水から東京に向かう、背の低いレンガ造りの線路には明治、大正初年の名残が見て取れるようです。

明治の名残を感じさせる御茶ノ水近辺の線路


 これより明らかに背の高い、鉄橋で結ばれた秋葉原駅は、関東大震災後の復興と、大正末期、また終戦後の改修による昭和の息吹が聞こえるようです。

 天災である地震と、2次災害である火災など、またどちらとも性格の異なる戦災、一緒にすることはできませんが、先人は大きな災害の躓きからの復興で、今の東京の風景を作り出してきた、それは間違いないでしょう。

 関東大震災があったから、今日の丸い緑の山手線が今の形を取るようになった。東京大空襲後の復興で、新幹線、首都高といった戦後のインフラが整備されていった。

夜の秋葉原、総武線の線路は昭和の息吹


 山手線の歴史、下調べはもっと細かく見てみましたが、一つひとつに歴史の深い彫琢があり、興味が尽きません。

 今、大規模な災害からの復興に直面している地域で、災害前と後、どのような変化が起きているのか・・・。

 一概に言うことなどできず、ケースバイケースと言うのに尽きますが、歴史を振り返り、今日、そして未来を占うのは、意味あることだと思います。

 さらに言うなら、オリンピックのようなものも、1964年時点では明らかに焼け跡からの復興に意味を持っていた。今それに比べるべきものが、どれだけあるかは、問うべき問題と言わねばならないでしょう。

 秋葉原の背の高い高架と鉄橋は「下町」という言葉の意味をよく理解させてくれるように思います。

 また、住宅が密集していた下町を整理し直すのに、震災や戦災が意味を持ってしまったというのも、歴史の現実と思います。

 さてしかし、それにしても、どうして、東京の「山の手」側に、南北の山手線を、あれほど早い時期に作らねばならなかったのか・・・?

 その背景には、日本の近代のもう1つ隠された歴史が存在していました。

(つづく)

筆者:伊東 乾