作詞・作曲家 小椋 佳さん

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年が上がるにつれて周囲から期待される立ち居振る舞いは変わっていく。サラリーマン経験がある識者に、年代別の「理想の振る舞い方」を聞いた。

「40代の振る舞い方」
●教えてくれる人:作詞・作曲家 小椋 佳さん

一昔前は、銀行は決まった仕事を繰り返しているだけと思っている人が多かったようです。しかし、それは銀行の一面しかとらえていませんでした。私は日本勧業銀行(現・みずほ銀行)に入行して以来、むしろ「初物の仕事」ばかり行ってきたのです。

実際に私の40代も、初物の仕事で始まりました。当時の銀行は、だいたいどこも同じ商品を同じ条件で売っていました。しかし、資金の運用と調達の両サイドから多様なニーズが生まれ、独自商品が求められる時代に移行しつつあった。そこで新商品開発のために「国際財務サービス室」が新設され、その初代室長に任命されたのです。

これには伏線があります。新商品を開発するには、それまでの銀行業の枠組みにとらわれていたらダメで、銀行と証券、保険の垣根を取り払った「総合金融業」としての視点が大切でした。

実は私は、以前から行内で「総合金融業化」を訴えてきました。25〜26歳のころ、銀座支店で資生堂グループの担当になったのですが、同社は関連会社が多く、グループ内で大変な額のお金が動いていました。これらのお金をすべて取り扱えれば、大きな利益になります。そのためには、銀行業の枠を超えて総合金融業化する必要がある。その考えを「資生堂論」という論文に書いて提出したのです。

そして論文を出した後も、ことあるごとに私は総合金融業化を主張してきました。上層部は、それを知っていたのでしょう。国際財務サービス室が新設されるときに、「あいつにやらせてみよう」という話になったようです。

この部署では本当に好き放題にやらせてもらいました。メンバーとして集めたのは、外国為替やスワップに詳しい人など、約10名の若手。仕事の進め方も、それまでのやり方は無視です。出社せずに家で考える日をつくったり、ソファーのある会議室に寝転がってひたすらアイデアを出す日をつくったり。机も普通に縦に並べるのではなく、卍形に組んだりしました。他の部署から見たら、「あいつらは何をやっているのか」と異様に映ったでしょうね(笑)。

でも、自由にやらせてもらったおかげで、金融先物や証券、為替などを組み合わせた新商品を次々に開発できました。いまでいう「デリバティブ商品」です。銀行が収益を完璧に確保できる商品で、おそらく私たちは銀行に何兆円も儲けさせたんじゃないでしょうか。

そのようにやりたいことをやるには、日頃から自分で「環境づくり」をする必要があります。処世訓めいていますが、意識していたのは「自分の手柄を上司の手柄にする」ことです。そうすると、あれこれうるさくいわなくても自ずと「あいつに任せておけばいい」となる。これを若いころから続けていたので、40代になってなおのこと自由に仕事ができたのだと思います。

■無から有は生まれない曲づくりの舞台裏

もちろん、40代の時期も音楽活動は並行していました。よく「激務のなかで、よく二足の草鞋を履けましたね」といわれます。ただ、自分ではそうしているつもりはなかったですね。

1曲つくるのにかかる時間は、約3時間。年に約50曲つくっていたので、年間150時間です。一方、銀行の仕事は、残業や休日のお付き合いのゴルフも含めて、年間2400時間費やしていました。それに比べたら、何でもありません。お正月休みにまとめて30曲つくってしまうこともあって、そもそも普段、作詞作曲の作業に時間を割くことがほとんどないのです。

また、自然と創作の意識を24時間持ち続けるようになっていきました。歌のヒントになるものを私は「歌種」と呼んでいて、その歌種は日常に潜んでいるものなのです。

たとえば証券部時代、同僚たちと飲んでいたら、ある女性が自分の仕事ぶりを反省しながら、「昨夜、とてもいい夢を見たの。仕事中も夢が頭に残っていて、上司に呼ばれてもすぐに席を立てなかった。昨日の夢に腰かけていたみたいで、ダメね」と話しました。

そして、その言い回しに触発されてできた歌が「昨日の夢に腰かけて」。男は青春時代、熱い夢を描きます。社会人になるとそれを忘れてしまう。でも、いまでもどこかで夢の尾っぽを引きずっている……。彼女は決してそうした意味でいったわけではありませんが、彼女の一言から歌詞のイメージが一気に浮かび上がってきました。

歌種は普段の仕事や生活に隠れています。「歌をつくりたい」という気持ちを常に持っていれば、自然とそれを見つけて取り込めます。創作で、「無から有が生まれる」というのはウソ。それは仕事も同じで、いつも考え続けているからこそ、商品開発など新しいアイデアが生まれてくるのです。

行内には、私が音楽活動をしていることについて、いい顔をしない人もいました。合併して第一勧業銀行になり、行員は急に増えました。仕事で付き合いのない遠い人は、私が何をしているのか見えないから、そういう気持ちになるのかもしれません。

ただ、曲づくりをやめるつもりはなかったし、人事部は音楽活動を止めるのでもなく、かといって利用するでもなく、温かく無視してくれました。他行の人から「うちの銀行ならキミは辞めさせられる」といわれたこともあります。環境に恵まれていたのでしょう。

50歳を目前にして銀行を退職したのは、『平家物語』の「見るべきほどのことは見つ」という心境になったから。私が入行した当時、社会的に問題視されていたのが「個の疎外」。サラリーマンは組織に入ると、その価値構造に染まって個を失う。私は「組織内存在」になりつつ、「組織外存在」の目でその様子を観察し、歌での表現を続けました。ただ、組織の中で起きることはほぼ見え、学生時代にやり残した哲学を学びに大学に戻ったのです。

40代になって人生の後半戦を迎え、自分が進むべき道について迷っている人もいるはずです。これも処世訓ですが、「人間は自分が好きで、かつ得手なものを仕事にするのが一番いい」。普通はそれまで続けてきた仕事が最も得手なはずですが、本当は別に何かあるのかもしれない。40代は、それを見極めるいいタイミングでしょう。

▼小椋 佳さんに学ぶ40代の振る舞い方「3カ条」

1. 自分の手柄を上司の手柄に
やりたいことをするための日頃の「環境づくり」に徹する
2. 24時間いつも意識を働かせる
仕事も、創作も常に意識していることで新しいネタが見つかる
3. 自分が好きで得意なものを仕事にす
人生の後半戦を迎える40代は見極めるのにいい時期

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小椋 佳
作詞・作曲家。1944年生まれ。67年、東京大学卒業後、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)に入行。71年に初アルバム「青春・砂漠の少年」を発表。3作目のアルバム「彷徨」が100万枚のセールスを突破。「シクラメンのかほり」「俺たちの旅」「愛燦燦」など数多くのヒット曲を生み出す。93年に退職。現在も創作活動を精力的に行っている。

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(村上 敬=構成 柳井一隆=撮影)