『ここまでわかった! 大坂の陣と豊臣秀頼 (新人物文庫)』KADOKAWA/中経出版

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 本日12月18日、知将・真田信繁(幸村)の生涯を描いたNHK大河ドラマ『真田丸』が最終回を迎えます。

 大坂冬の陣・夏の陣において奮戦した信繁の人気は高く、後世に創作された"真田十勇士"のヒットも相まって、時の権力者・徳川家康に立ち向かったヒーローとして庶民の人気を不動のものにしましたが、その一方で、信繁が仕えた主君・豊臣秀頼の実像については、あまり知られていないようです。

 『歴史読本』編集部による書籍『ここまでわかった! 大坂の陣と豊臣秀頼』は、最新の研究成果を踏まえて、そんな秀頼の実像と、信繁が活躍した大坂の陣についての資料をまとめた1冊。

 過去の大河ドラマでも、母の淀殿(茶々)の陰に隠れがちな存在に描かれることが多かった秀頼ですが、同書では以下のように問いかけます。

 「父の偉業を引き継ぐことができなかった暗愚な武将、母の言いなりのお飾り――こうしたステレオタイプで語られることの多い秀頼ですが、果たしてそれは真の姿なのでしょうか」(本書より)

 同書では、秀頼が大坂城の主として、目まぐるしく変遷する政局をいかに乗り越えようとしたのか、その足跡を丹念に追っています。

 大坂城の落城後、大坂や京都では、こんな俗謡がまことしやかに歌われたそうです。

 "花のやうなる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ"

 史実では、慶長20(1615)年5月8日、秀頼は自刃し、23歳の生涯を終えていますが、"実は秀頼、信繁とも大阪で死なず、信繁は秀頼を守り薩摩へ落ち延びた"...そんな俗謡が生まれた背景には、秀頼に同情を寄せた民衆の感情が存在したのではないでしょうか。

 秀頼の死の前日、信繁は家康の首級を狙い、家康本陣に突撃しましたが、あと一歩のところで力及ばず討ち死。その勇猛果敢な戦いぶりは敵の徳川方を震え上がらせ、『真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)』と驚嘆させたといいます。

 果たして、信繁が命懸けで守ろうとした秀頼は、名君だったのか? それとも従来のイメージ通りの暗君だったのか? 本書を一読すれば、きっと新たな発見があることでしょう。