東京に生きる、結婚しない女性のストーリー。今回の主人公は、話題の高齢処女。商社一般職・谷口絵里香(37歳)は、なぜ美人なのにも関わらず、独身の道を選んだのでしょうか……?

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恋を叶えるには、多くの奇跡が重ならなくてはならない。

12月の金曜日、深夜0時、渋谷の道玄坂を下る谷口絵里香は、さまざまなタイプのカップルとすれ違いながら、つぶやいた。

スーツを着た男×白いファー付きコートを着た女、醜い中年男×ロリ系服女、ヒップホップ系ファッションの男×ニットキャップをかぶった女……多種多様な男女が、今夜愛を交わす相手と道玄坂を上がり、窓がひとつもない“やるための部屋”に吸い込まれていく。

絵里香と同じように渋谷駅に向かう人々に、シングルの男性もいる。絵里香は手当たり次第に「いっしょに飲みませんか?」と彼らに声をかけたい衝動に駆られた。

ふいに横を向くと、ビルの壁の一部が鏡になっていた。不意打ちで自分の姿を見ては「だれ、このオバさん」と思うことが増えた。人は自分が見たい世界を生きている。だからきっと、鏡を見る時は自分の姿をそっと“補正”するのだろう。

絵里香は鏡と向き合って立ち、ベージュのカシミアのコートの襟を正した。急に立ち止まったので、スーツ姿の男性がぶつかってきたが、彼の方から「あ、すみません」と足早に立ち去って行った。こっちが悪いのに謝られてしまうことも、最近増えたことのひとつだ。

処女でありながら、中年化する自分の肉体を持て余す……

鏡に映るのは、166cmの長身に、ヴァレンチノのロックスタッズのショルダーバッグを斜め掛けして、シルバーのヒールが特徴的なCELINEのアンクルブーツを履いたモードなファッションの女。賢そうな顔立ちと、ほっそりした体つきで、30代前半に見えなくもない。ただし、よく見ると下半身に肉が落ちている。中年女特有の、ボディーラインのたるみがコートの上からでもわかる。絵里香はこの生々しい肉感をなるべく消すようなファッションを心がけていた。今日だって、肉を押し込めるように、アレキサンダーワンの細身のパンツをはいており、パッと見、中性的だ。

見えないように押し込んだ肉……男女の欲望が吹き上げる深夜0時の渋谷の街にいるうちに、体の中の“怪物”が暴れ出してくる。怪物の正体は誰かに触れたい、ギュッと抱きしめてもらいたいという、少女じみている切実な欲望だ。鏡の中の自分に決別するように、駅に向かって歩き出した。人が洪水のようにあふれているのに、絵里香の恋の相手は、いない。

終電間際の山手線に乗り、目黒の実家に向かう。絵里香は生まれてから37年間、実家を出たことがない。それに、男性と恋愛をしたことがない。交際をしたことがないから、キスさえも経験がない。

先ほどまで渋谷のラブホテル街の真ん中にある多国籍レストランにいた。2か月ぶりに大学の同級生の田中恵美と飲んでいたのだ。彼女は現在、テレビ局に勤務している。高校、大学と成績が悪く、絵里香のいたグループとは違ったが、SNSで1年前に再会してから、妙にウマが合い、1か月に1回のペースで飲んでいる。

恵美は愛嬌があり要領がいい。なんとか大学を卒業した後、テレビ局に潜り込み、ちゃっかり正社員になり、5歳年上のエリート男子とデキ婚した。25歳で出産し、実家のサポートですぐ復帰。上の子どもはもう12歳だという。学生時代は絵里香の方が“格上”だったのに、いつの間にか追い抜かれていたのだ。

自分の方が格上なはずなのに……、何が足りなかったんだろうか?

学生時代、成績優秀でミステリアスな美人女子大生だった絵里香は、現在37歳の高齢処女で一般職のファッションオタク。

田中恵美は学生時代に常に赤点スレスレ、小太りでニキビ面をしていたが、今は夫婦ともにキー局の正社員で12歳と10歳の子どもの母。渋谷の住宅街にマンションを購入している。

女の価値が、美貌と素直さから“生きる総合力”になり、そこに“家族”というアクセサリーが必要になったのはいつからだろうか。

甘ったるいサングリアがなみなみと注がれたグラスを持つ、恵美の手の薬指には、結婚指輪が肉にめり込んでいた。

「ウチのダンナなんて頭は薄いし、背は低いし絵里香だったら絶対に相手にしないと思うよ。でもそれでもいいんだよね。あのときは24歳だったし、特に好きという気持ちはなかったけど、タイミングが合ったから。恋をするには、いろんな奇跡が重ならなくちゃいけないけど、仲良くするのは勢いでできる。そうこうしているうちに子供ができて、無我夢中で今があるよ」

絵里香は心動かされる相手と、両想いになって、恋愛して、結婚したい。「この年で相手を好きになることはないし、恋をされたからって、相手に恋できるものではないじゃない」と絵里香は恵美に言った。

「恋はむき出しの感情だから、傷つきやすいし簡単にはすり合わない。だから片思いでいいんじゃない? 恋と体の関係は別物だよ。なんか、絵里香って小野小町っぽいよね。どんなオトコにもなびかない。美人だから、自分から動くこともできない。でも世間的にはアラフォーのオバさんなんだからさ、どうしてもしたかったら、テキトーな年下とかいいんじゃない? このままだと、清い体のまま死んじゃうよ」とサラッと語った。絵里香は、痛いところをスパッと語る女が好きだ。

都会の街で、見知らぬ人が溢れているほど、一人で生きているという孤独を感じる。

一度も実家から出たことがない絵里香、人生を変えたのは同期の死だった。その2に続きます。