オタール・イオセリアーニ監督

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 名匠オタール・イオセリアーニ監督の最新作「皆さま、ごきげんよう」が、12月17日公開する。フランス革命、大戦時代、そして現代と軽やかに時間を飛び越え、個性あふれるパリの住人たちが織り成す人間模様を、反骨精神たっぷりのユーモアを散りばめてつづった人間ドラマだ。ジャック・タチ「ぼくの伯父さん」のイラストポスターで知られ、今年10月に死去したピエール・エテックスさんも出演している。来日したイオセリアーニ監督がエテックスさんとの思い出、自身の映画人生を語った。

 「ぼくの伯父さん」(1958)で助監督や俳優を務めたエテックスさんは、62年に初監督作「女はコワイです」で長編デビューし、その後幅色い分野で活躍。「フェリーニの道化師」での本人役をはじめ「マックス、モン・アムール」「ル・アーブルの靴みがき」などに俳優として出演している。今作では、大規模な取り締まりによって追い出されるホームレスのひとりに扮した。

 イオセリアーニ監督は、エテックスさんを「映画においては一度も大きな成功を収めたことはなかったが、偉大な映画作家につながる人物」と評する。「映画作家が偉大だというときは、その作家に言うべきことがあるということです。人生という現象を基盤にし、人間存在とはなにか、人間がなぜ地上にいるのか、なぜ不幸なのか。この地上にいることが幸せなことなのに、なぜそれに気付かないかを考える、そういう人が偉大な映画作家なのです」

 「今は映画が一種の商売になり、精神的な側面を失ってしまいました。尊敬すべき映画作家はますます稀有なものになっています。エテックスは勇気を持った人物で、彼の作った作品すべてが映画の遺産として残されるべきです。そして私の友人でした。最初は距離を持って、お互いを遠くから知っていました。そしてそのうち、お互いを真剣に考え、敬うようになりました。そうすると、ずっと人生でその人を知っているかのようになるのです。そういう人物はこの地球上でそれほどいません。しかし、各人が生きている間に成し遂げなければならない信念を持っていることが感じられます。数は少ないと申しましたが、私は他人に対して喜びを与えられる人、そうした人に出会うことをうれしく思います」

 御年82歳のイオセリアーニ監督。旧ソ連のジョージア(旧グルジア)から、1979年にフランスに亡命し、「月の寵児たち」(1984)以後はフランスを拠点に作品を発表している。「映画作りが難しいのはどこにいても同じです。ソ連にはイデオロギーによる検閲がありましたが、資本主義社会に移って、検閲を行っていたのが商業だとわかりました。ヨーロッパの場合、検閲の基盤になるのが大衆のメンタリティです。大衆、すなわち観客ということになりますが、大衆は映画を思考の行為とする関係をなくす紋切り型のハリウッド映画で教育を受けたようなものです」

 政治的、経済的困難を経験しながらも、長年自身の信念を貫いた作品を作り続けてきた。映画史に名を刻む映画人たちとも交流を深め、若き日に出会った2人の巨匠の逸話を紹介する。

 「フェデリコ・フェリーニは『ジンジャーとフレッド』を作ったときには、本当に成熟した映画作家になっていました。彼の作品のすべてが軽薄だとは言いません、『道』は素晴らしい作品です。そして、本当の傑作は『そして船は行く』です。しかし、ようやく彼が成熟した作家になったとき、商業的な人々は彼に対しての興味を失ったのです。彼が74歳くらいの頃、私に『もう映画を作るお金を見つけられない』と言っていました。商売人は悲劇的なものであったり、真面目な映画が嫌いなのです」

 「面白いのは、黒澤明が『デルス・ウザーラ』をソ連で監督したときのことです。ソ連の検閲でさまざまなことが禁止され彼は自分の思い通りの映画は作れませんでした。そのとき黒澤は、若い私が話すために、『まず、KGBのエージェントではない通訳を見つけなければならない』と言いました。日本語もロシア語も話せて、しかもKGBではない人を探すことはとても難しいことです。私は日本文化のすべてのニュアンスがわかるよう若い作家を見つけました。黒澤は彼を通して私に、『私はもうソ連で映画を作ることはない。しかし、あなたは映画の人生をはじめたばかり。どういう人生になるかわからないが、とてもつらい人生になるだろう』と言いました。私は、『つらければつらいほどエキサイティングだ』と答えたのです。だからこそ、私は今も映画を作っています。柔軟で豊かな言語を使って自己表現ができるからです」

 「皆さま、ごきげんよう」は、12月17日から岩波ホールほか全国で順次公開。