ドナルド・トランプ氏(写真:ロイター/アフロ)

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 アメリカ次期大統領が実業家のドナルド・トランプ氏に決まって、1カ月以上が経過した。トランプ氏の当選は、事前の予想を覆してヒラリー・クリントン氏に競り勝つ快挙であった。

 トランプ氏といえば、その過激な発言が常に注目された。「不法移民廃絶のために、メキシコとの国境に壁を建設する」といったものである。実際問題、アメリカでは低賃金の不法移民を雇用することで、中産階級以下のアメリカ人がさらなる低賃金や失業の危機に遭ったことは事実。トランプ氏は、そのような現実に対する国民の不満をあぶり出したといえる。

 また、トランプ氏があぶり出したのは不法移民に対する不満だけではなかった。それは、もともと白人たちの心の奥底にあった、人種に対する感情の問題である。彼らは、その差別的な意識を公の場で他者に話すことはほとんどない。そのため、これまで表面化することはなかったものの、大統領選挙ではまさに「票」として表れた。

●車の中からピストルを向けられる日本人

「年内に12年暮らしたアメリカを後にします。理由はトランプです。なんとなく気づいていましたが、これは、アメリカにも民族主義的なものがやってきたということなのでしょうか」

 そう語るのは、佐々木真子さん(仮名・37歳)。大学でアメリカに留学し、その後日本企業に就職したものの、ニューヨークの金融系企業に転職した。

「もともと、ニューヨークでは民主党が強いのですが、それでも最初からかなりの危機感がありました。とはいえ、『最後はギリギリでヒラリーだろう』と思っていたのですが、まさかの結果でした。この半年、有色人種、さらにちょっとした富裕層がターゲットと思われる事件も多く、今後は有色人種の富裕層が一番のターゲットになりかねないと思います。私は富裕層ではないですが、そう思われるような場所に住んでいるし、『何も怖い思いをしてまで、この街に住む必要はないな』と感じたのです」(佐々木さん)

 この2カ月の間に、彼女は郊外で車の中からはっきりとピストルを向けられた経験が何度もあるという。これまで、そんなことは皆無だったというから、短期間でアメリカ社会に変化が訪れていることになる。クリスマスまでアメリカの会社で働いた後、帰国して仕事を探すということだ。

●トランプ当選は理不尽な憎悪の巨大化

 11月半ばに帰国した菊池浩介さん(仮名・42歳)は、高校時代に西海岸に留学、一時帰国後に再渡米し、そのままアメリカの企業を渡り歩いた。20代でアメリカ人女性と結婚したが、2年で離婚。現在は独身だ。イラク戦争もアメリカで経験している。

「イラク戦争のときも、異教徒、異文化、有色人種、非アメリカ人はヘイトの対象でした。でも、日頃から治安の悪い地域がちょっと範囲を広めただけで、そこに近づかなければ問題はなかったのです。でも、今回は違う。大手を振って、有色人種へのヘイトがまかり通っています。

 中産階級以下の多い中西部などは、あからさまに入店を拒否しますし、道を歩いていても舌打ちされる。今まで感じたことのない危険を感じ、『本気で帰ったほうがいい』と帰国を決意したんです」(菊池さん)

 菊池さんは、渡米したころから白人、黒人のどちらからも「なんとなく違和感を抱かれている」ということはわかっていたという。特にアメリカでは「肌の色で差別するのは、人としていけないことである」という常識があり、知識人たちはその常識を身につけていることが当然とされていた。だから、「心の中では多少の差別意識があったとしても、それを押し隠していたり、自分でその意識を否定したりしていたのでしょう」(同)という。

 その「みんな感じていたけれど、決して表に出してはいけないこと」を代弁したのが、トランプ氏だったのだ。

「驚くほどの熱狂でしたよ。世論調査では『ヒラリー有利』と言っていましたが、肌で感じていたのはトランプの優勢でした。熱狂というか、その裏にある憎悪とでも言うのでしょうか。中産階級以下のアメリカ人、特に低所得者の憎悪を感じました。『自分たちに仕事やお金がないのは、すべて移民の責任』『自分が離婚したのも、生活が破綻したのも、すべて移民の責任』という空気が充満していたのです。

 私からすれば、『文句ばかりで働かない人よりも、しっかり働く人のほうに仕事が行くのは当然』という気分でしたが、そんなことは口にはできませんでした。私から見たら、あまりに理不尽な憎悪が巨大化していたので、選挙戦の中盤くらいからは『トランプが勝利したら日本に帰ろう』と考えていました」(同)

●これ見よがしに銃を持ち歩くアメリカ人

「10年以上アメリカで暮らしていましたが、今年6月以降、嫌な雰囲気が急速に充満してきました。いたたまれない気持ちでした」と言うのは、9月に家族で帰国した吉田康平さん(仮名・46歳)である。

 彼は日本の大学を卒業し、日本企業に就職。26歳のころ、大学時代から付き合っていた女性と結婚する。アメリカの企業に長期出向したことがきっかけでアメリカ企業に転職し、現地に自宅も購入した。2014年にはゼネラルマネージャーに昇格、アメリカでもそれなりの地位にあった。

 それでも、彼は大統領選より前に会社を辞めて帰国した。なぜだろうか。

「トランプに熱狂するアメリカと、それを冷めた目というか、ちょっとバカにした空気で見ているアメリカ。この2つの人たちの間に、あまりに深い溝があることが見えてしまったんです」(吉田さん)

 その深い溝の代償は、有色人種、特に黄色人種に最初に向けられる気がしたという。その「皮膚感覚」が現実のものにならないうちに、家族を守るためにも吉田さんは日本に帰ってきたのだ。

「トランプが共和党の指名候補になる可能性が高まったころに帰国準備を始めて転職先も決めていたので、安心して帰って来ることができました。とにかく、帰国直前はいろいろな街でこれ見よがしに銃器を持ち歩く人が増えていたんです。また、あからさまに人種差別発言やその手の態度をとられることも増えていました。以前は東洋人でも『日本人』と言えば相手の態度は親しいものになったのですが、もう関係ありませんでした」(同)

●トランプが開け放った「パンドラの箱」

 吉田さんが渡米したころ、アメリカには「有色人種が大統領になる」という空気はまったくなかったという。それが、08年の選挙でバラク・オバマ氏が次期大統領に選出された瞬間、吉田さんは「アメリカが変わった」と心底感じた。しかし、今回のトランプ氏に対する熱狂に関しては、「オバマ大統領誕生のときとは正反対のことが起きたと感じた」(同)という。

「おそらく、『我こそはアメリカの支配者だ』と思っている白人アメリカ人の心のどこかに、トランプがいたんです。ちっちゃいトランプですね。これまでは、それを良識で押さえ込んでいた。『成功するアメリカ人は、差別的発言をしてはいけない』『そういう理想と知性がなければ、世界のトップたり得ない』と思おうとしていたのでしょう。

 しかし、ビジネスで成功を収めているトランプがそれを打ち破って、みんなが『言ってはいけない』と思っていたことを叫び始めた。まさに、パンドラの箱を開けたのです。もう、仮にトランプが負けたとしても、『これだけ分断されたアメリカを元に戻すのは無理だ』と感じました。本気で生命の危機を感じ、子供や家族の安全を常に気遣いながら生活することの意味を考えました。それなら日本に帰ろう、と。子供も同意見だったので帰ってきました。トランプ勝利は日本で知りましたが、予想できた結果です」(同)

 アメリカからの帰国を決める日本人は、今後ますます増えていくのかもしれない。最後に、母国のアメリカを捨てて日本に移住したアフリカ系アメリカ人の言葉を紹介したい。

「日本では、たとえ差別されたとしても、『黒人だ』というだけでつばを吐きかけられることも、いきなり殴られることも、ましてやいきなり撃たれることもないでしょ」

 アメリカの分断が止むことはなさそうだ。トランプ氏は17年1月20日に第45代大統領に就任する。
(文=編集部)