「Thinkstock」より

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●家の価値とは?

「人生最大の買い物は何?」と問われると、多くの人は「家」と答える。これまで多くの日本人にとって、家は「買うもの」、買えるのだったら「買いたい」対象であり続けてきた。

 車が売れなくなった、といわれている。以前は、車を所有することが一種のステイタスであり、憧れの対象だった。大学生になったら、とにかく運転免許を取得するのは当たり前。取れたて免許の、危なっかしい運転でレンタカーを繰り出す若者は大勢いた。

 そして、社会人になったら、まずは車を買いたい。最初はカローラから。1983年、トヨタ自動車の車、クラウンのテレビコマーシャルは石坂浩二さんの渋い声で「いつかはクラウン」と語りかけたように、人生の成功と車のステイタスは密接に結びついてきた。

 ところが最近では、若い世代の多くが車の購入には関心がない、とのアンケート調査が発表され話題となっている。

 これには世の中の価値観の変化が密接に絡んでいるのだ。車をなかなか持てなかったとき、車を所有することは、「お金持ち」の象徴だった。しかし、現在では国内における自家用乗用車の台数は5981万台(2014年3月)、1世帯当たり1.069台、どの世帯にももれなく1台の車があるという状況だ。

 車はコモディティ(汎用品)となってしまったのだ。「生活の足」としてなら軽乗用車でよい、しょせんは長くて10年くらいの使用期間だから、高い車なんて不経済だ。都心部では公共交通機関が発達しているので、電車やバスで十分。むしろ駐車代がもったいない。ときたま使いたいときのために、「カーシェアリング」があれば十分。このように車に対する考え方はどんどん変化してきている。

●家の所有権

 住宅はどうだろうか。中高年世代は、これまで自分の家を持つことに大きな価値を見いだしてきた。「いつかはクラウン」と同じような感覚で「いつかは郊外一戸建て」を夢見て、サラリーマンの多くが、飲み代を減らし、昼食代も節約し、小遣いを切り詰めながら、家を買うための貯金に励んできた。

 このような涙ぐましい努力の結果、多額の住宅ローンを背負い込んで買った郊外戸建て住宅。ところが、ローンがある限りは、完全に自分の所有権ではない。金融機関の担保が課された住宅で毎日生活しながら、今度は必死にローンを返済するために働き続けた。都心まで1時間以上の時間をかけて通いながら。

 そして定年。退職金の一部までもローン返済に充てて、なんとか戸建て住宅は「自分のものになった」が、すでに子供たちも家を出て都心に住み、周囲は高齢者ばかり。坂ばかりの郊外戸建て住宅地は決して高齢者にとって、住みよい街ではなくなっている。それでも「家を持っている」から住み続けなければならない。昔のように、売る気になればいつでも高い値段で売れた時代は過ぎ去り、今やまったく流動性がなくなった家の中で、老後生活を送らなければならない。

 さて、家の所有権とはなんなのだろうか。見方を変えるならば、ものすごい苦労の後に手にした家が、今の自分を縛りつけているとも考えられないだろうか。

 多額の住宅ローンの返済のために、人生を豊かにするはずのお金のほとんどが、「家を持つ」ための資金に振り替えられた結果、彼らの人生にはどんな彩りができたというのだろうか。高齢者ばかりで、しんと静まり返った郊外戸建て住宅地の中で、ローン返済を終えた住民の多くは今、何を想うのだろうか。

●現代の「家」事情

「賃貸住宅で家賃を払うくらいなら、住宅ローン返済していたほうが、最後に家を持てるのだからトクですよね」という使い古された勧誘文句がある。確かに、所有権を確保するためにローン返済を続けている行為は、自らの資本を充実させるための「投資」と位置付けることができる。

 一方で、賃貸住宅に住んで家賃を払い続けても、それはいつまでたっても会計上の「費用」でしかない。一見するとこの理屈はまことにもっともにみえる。

 所有権を持つということは、「その対象を自らの手で自由に使うことができる権利」と言い換えてもよいかもしれない。他人の物を使用するために費用を支払い続けても、しょせんは自分の所有物ではないので、自分の自由にはならない。費用だけを「捨てている」と考えるのが、この勧誘文句の根拠だ。

 ところで、ローンを組んででも所有したい、あるいは所有しなければならない「家」という存在はなんだろうか。「家」が絶対的なもの、永続的なものと考える限りにおいて、家を持つ、という効用は人生をかけるに値するかもしれない。

 しかし、今の日本では家族という共同体は、大きく変容している。働き手は父親だけだったものが、夫婦は共に働くようになり、子供は幼少期から保育所に預けられ、家族が共に過ごす時間は、昔よりも圧倒的に少なくなっている。

 家族それぞれの生活も、行動する時間帯はバラバラ。全員の帰宅時間は異なり、朝もそれぞれが勝手に朝食をとり、勝手に出かけていく。昔のような「家族団欒」は望むべくもない。

 子供たちが育ちあがると、別々に暮らし始め、家には戻ってこなくなる。家には年老いた両親が残るだけ。多額のローンを組んでやっと手に入れたマンションは築35年の古びたマンション。すでに購入時の価格からは大幅に下がり、「売れたらラッキー」というほどの価値しか見いだせない。これが現代の「家」事情だ。そして、この生活を支えるためだけに膨大な資本を投入し続けたのが、家の購入だった。

●費用とは「捨てる」ものではない

 家賃を払うということは「費用として捨てている」といったが、費用は捨てるものではない。費用とは、費用を差し出すことによって、「効用」を得るためのものだ。決して「捨てる」ものではないはずだ。勧誘文句には、このあたりの概念が抜け落ちている。

「家賃」はもったいないもの、「ローン返済」は自分の身になるもの、という基本的な考え方は、本当に正しいのだろうか。

 家族全員が家にはとどまらずに、毎日激しく動き回る世の中では、家の選択も必然、「住環境」よりも「利便性」が重視されるようになる。また、家族が同じ家にいて、一緒に暮らす時間も以前よりも短くなるなかでは、「家」という所有権は必ずしも絶対的なものではなく、家族それぞれが行動しやすい場所の家を「使い倒す」発想が出てきても不思議ではない。

 所有権とは「重たい」ものだ。所有することの安心感があるいっぽうで、所有することによるさまざまな負荷がかかるのも事実である。家賃であれば、会社をリストラされて収入が減少したら、他の安い借家に移ればよい。家族が少なくなれば、もっとコンパクトな借家に引っ越せばよいが、所有権があるかぎり、どんなに経済状況が悪くなっても、ローン返済は毎月確実にやってくる。毎年5月になれば、自治体からは固定資産税・都市計画税の納税通知書が郵便ポストに入ってくるのだ。

●所有権からの解放

 社会は不確実性を増し、大企業といえども決して安泰とはいえない世の中にあって、長期間、家族が同じように生活し、収入は安全確実に入ってきて、家族の構成や行動範囲もほとんど変わらない、といったような「超安定的」な生活をしている人は少なくなった。

 家をとりあえずは今の生活を続けるのに支障のない範囲で割り切って、たとえば家族の利便性を重視して、都会のマンションを借りる。ある程度生活も安定し、子供が卒業したあとに、夫婦そろって暮らせるような家を買う。最近は結婚生活が長く続かない人も多い。ひとりぼっちになっていれば、「ひとり住まい」に良い家を買う。いろいろな選択肢を、置かれた状況に応じて使い分ける、つまり所有権から「解放」された人生を過ごしてみることも、今後の生活スタイルとして定着してくるかもしれない。

「家なんて持たなくてもいいじゃん。いくらでもあるのだから」

 こんな考え方がすぐ将来の日本では常識になっているかもしれない。
(文=牧野知弘/オラガ総研代表取締役)