大学の改善の取り組みはうまくいくのだろうか。(写真はイメージ)


「ファカルティディベロプメント」(FD)という言葉をご存じだろうか。一般の方々にはなじみのない言葉だと思うが、今日では、これを知らない大学関係者はいないはずである。

 字義どおりに説明すれば、FDとは、大学の教員組織(ファカルティ)による、大学教員の教員としての職能開発(ディベロプメント)のことである。もう少し簡単に言えば、「大学における授業や教育の改善のための組織的な取り組み」ということになる。

 なんだ、良いことではないか、と思われるかもしれない。確かに、良いことには違いないのだが、しかし、少なくない大学教員は、FDという言葉を聞くと、拒絶反応に近い態度を示したり、苦虫を噛み潰したような顔をしたりする。

 なぜ、そんな反応が起きるのか。今回は、この問題について考えてみたい。

FDは何を行っているのか

 FDについてのイメージをつかんでもらうために、まずは、現在多くの大学で実施されているFDの定番メニューを見てみよう。以下に、文部科学省の「平成25年度の大学における教育内容等の改革状況について」(2015年公開)の一部を抜粋して、各大学が実施しているFDの取り組みとその実施率を挙げてみる(下の表)。



(*配信先のサイトでこの記事をお読みの方はこちらで表をご覧いただけます。http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/48579)

 この調査の質問項目にはなぜか登場してこないが、実は、最も多くの大学が取り組んでいると思われるのが、「学生による授業評価アンケート」である。実際、平成21年度の同じ調査には、この質問項目が含まれており、実施率は80%に上っていた。

 およそのところは、お分かりだろうか。取り組み内容によって、実施率にはばらつきがあるが、それでもFDに取り組んでいないという大学は存在しない。日本の大学におけるFDへの取り組みは、一気にというわけにはいかないとしても、着実に広がっているのである。

点検・評価されたくない教員たち

 それでは、なぜ、大学教員はFDを忌避するのだろうか。出席を義務づけているような場合は別として、通常の任意参加のFD研修会などでは、教室中を見渡しても、目に入ってくるのは、前列の席に陣取った関係者の顔だけであって、全体はむしろ閑古鳥が鳴いているといったことも少なくない。

 もちろん、近年では小中高の教員だけではなく、大学の教員もまた、相当に多忙化しているという事情はあるかもしれない。しかし、確信を持って言うが、大学教員がFDを嫌うのは、多忙化だけが原因ではあるまい。

 一例だけ挙げれば、学生による授業評価アンケートの結果を見ることなどは、さほどの時間を要することではないはずだ。にもかかわらず、アンケートの結果を、そもそも見ようともしない教員や、学生側の評価能力を疑い「こんなものやっても意味がない」と、不満たらたらの教員が後を絶たない。なぜ、そうなるのか。

 誤解を恐れずに、言ってしまおう。FDの取り組みには、研修会であれ、授業評価アンケートであれ、同僚の教員による授業参観であれ、常に大学教員自らが現に行っている授業や教育を「点検・評価する」という要素が組み込まれている。そして、多くの大学教員にとっては、こうした点検・評価のまなざしに晒されること自体が、想像するに相当に苦痛なのである。

 確かに、大学の教員といえども組織の一員である以上、つねに独立性を持って行動できるわけではない。組織の論理や決定に従わなくてはいけないことも多い。

 しかし、こと授業や教育という場面においては、まさに「一国一城の主」のポジションが保証されていたのが、伝統的な大学のあり方だった。そして、だからこそ他ならぬFDは、こうした教員としての特権的なポジションにくさびを打ち込む取り組みに映るのである。

 もちろん、良識的な教員であれば、それが教育改善のためのものであり、学生の利益にかなうことであると頭では理解している。しかし、身体レベルでの感覚がついていかないのであろう。

自主的取り組みが半ば「義務」に

 ただし、大学教員がFDを避ける理由は、いま述べたような意味での、教員という“生きもの”の性に由来することだけではない。そこにはもっと政策的な要因も絡んでいる。

 単純化した対比をすることを許してもらえば、日本の大学でFDへの取り組みが知られ始めたのは、1990年代以降のことである。当時、創成期のFDは、大学の大衆化の進行に直面した心ある大学人たちが、目の前の学生たちの実態に合わせて、自らの授業や教育の改善のために自主的に取り組みはじめたものであった。

 こうした取り組みは、周囲の大学教員たちを刺激したり、共感を集めたりすることはあったとしても、“脅威”を与えたりはしなかった。なぜなら、そこには、「強制性」の影が薄かったからである。

 もちろん、大学や学部としてFDに組織的に取り組むことを決めた場合、中には嫌々それに従った教員もいたかもしれない。しかし、それは、自らが所属する組織が決定し、合意したことであり、それに従うべき理由も納得しやすかったに違いない。

 しかし、こうした創成期のFDの“自主的”雰囲気は、2000年代を迎えると、しだいに影を薄めていく。FDは、自主的に取り組むべきものから、むしろ“やらねばならないもの”へと性格を転換する。

 そして、ついに2008年には、改正された大学設置基準が、各大学がFDに取り組むことを「義務化」(第25条の2)したのである。その後の文部科学省の施策においても、大学がGP事業等の競争的資金に応募する際には、実質的な条件としてFDへの取り組みを課す、あるいは、認証評価の際にもFDへの取り組みが評価の観点に入れられる等の措置がなされている。

 要するに、いまやFDは、大学人による純粋な自主的取り組みなどではなく、すべての大学にとって、半ば義務と化しているのである。当然、各大学の内部での実施の実際も、「何のために取り組むのか」という目的さえもが素通りされ、とにかく“やらねばならないもの”になっていることも危惧される。そして、そうだとしたら、少なくない大学教員たちが、FDに反発を感じるのも理由のないことではなかろう。

大学教育改革の強制が生む悪循環

 大衆化した今日の大学にとって、授業や教育の改善・改革は絶対に必要なことであり、そのためには、FDへの組織的な取り組みも求められる。

 これは、ほとんど自明の前提なのであるが、FDへの取り組みは、政策的な強制性が強められれば強められるほど、大学教員たちのやる気を喪失させている。もちろん、政策サイドから見れば、大学の自主的な取り組みが遅れているから、強制せざるをえないのだということにもなるのだろうが。

 これでは、議論は鶏と卵の関係である。改革の必要性は共有されたとしても、実行は形骸化し、骨抜きにされるというマイナスのスパイラルは、いったいいつまで続くのだろうか。

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筆者:児美川 孝一郎