大阪泉佐野市区に本格四川料理の店・蘭梅(ランメイ)がある。そこの主人である李建華さんは出身地である重慶方言を話し、重慶の人らしい性格で、重慶風の味付けの料理を提供している。

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大阪泉佐野市区に本格四川料理の店・蘭梅(ランメイ)がある。そこの主人である李建華さんは出身地である重慶方言を話し、重慶の人らしい性格で、重慶風の味付けの料理を提供している。中国の伝統楽器・二胡(にこ)の演奏を店内で日本人客に披露するなど、行動で故郷への愛着を示し、故郷を応援している。「祖国を離れると故郷にもっと注目し、好きになる。日本人の客も僕たちを通して中国を知り、理解してくれるかもしれない」と李さん。(文:楊野。重慶晨報掲載)

●中国にいるかのような雰囲気に浸れる店内
毎日夕方になると、「蘭梅」の店内からは、二胡の音が聞こえてくる。演奏される中国の曲から奏でられるのは、李さんの故郷に対する愛着。その熱い思いは、李さんの生活の隅々から表れており、「蘭梅」の店内には、伝統工芸・中国結び、漢字が書かれた屏風(びょうぶ)、重慶から仕入れたテーブル、イスなど、中国の要素があふれている。このような中国にいるかのような気分にさせられる店内で二胡の音が流れ、来る客一人ひとりがその雰囲気を楽しんでいる。

2000年、日本で重慶同郷会が立ち上げられ、李建華さんが会長に就任。その後、大阪に移った李さんは、関西華僑華人西南同郷会の会長を何度も務めた。これまで、李さんは幾度も、日本人を集めて、重慶を訪問、視察してきた。また、日本の教育界の関係者が自身の母校である清華中学(中高一貫校)を視察できるよう手配したり、貧しい学生を援助したり、中日文化交流を推進したりしてきた。

08年に四川大地震が発生し、李さんは先頭に立って、地元の国際文化交流機構と共同で、チャリティイベントを行った。「イベントにかかった費用以外の残ったお金で、プロジェクターや卓球台、桜の木などを購入して、重慶で被災した小学校3校に贈った」と李さん。

●大好きな日本語を勉強して通訳に
昔から日本語がずっと好きだったという李さんは、仕事の合間を見つけ日本語を独学で勉強し始めた。その後、日本の華僑に習い、その華僑が帰国してからも、重慶市少年宮の日本語クラスで4年間勉強した。このように、李さんにとっては、日本語が生活の中で重要な位置を占めるようになった。

その後、李さんは働きながら、広播電視大学で経済管理を学び、さらに日本語の勉強も続けた。1983年、重慶のある無線通信機器メーカーがカラーテレビの生産ラインを導入し、それを設置するために日本から技術者が数十人やって来た。当時、重慶には日本語が話せる中国人があまりおらず、紹介を経て、李さんが通訳を担当するようになった。通訳をそつなくこなしたため、通訳の仕事があると、多くの人が李さんと連絡を取るようになった。88年、李さんは、中国科学技術協会から、日本の山梨県の染色工場での実習に派遣された。

1年後、実習を終えた李さんは、重慶紡績工業研究所にあった日本語グループのグループ長として働くようになった。

●夢実現させるためにはるばる日本へ
中国で経済発展が早かった広東省や深センに移動して起業するのがブームとなっていた92年、多くの外資系企業が深センで資金を投じて工場を建設していた。李さんは、深センなら、得意な日本語を生かせる仕事があると考えた。

南方地方で6年働き、日本で働いている友人に何度も日本で働くことを誘われるようになっていた李さんは、妻と相談し、夢を求めて98年に日本に引っ越した。そして、李さんはある鋼鉄関係の会社で働き、妻は寿司屋でアルバイトを始めた。

「経験がなく、初めは大変だった」と李さん。8年奮闘して、生活がようやく落ち着き始めたものの、出費は膨らむばかりで、二人は夢を実現させるために動き始めた。「妻は料理が得意。アルバイトは大変なので、中華料理店を開くことにした」と李さん。

06年6月10日、李さんの妻の名にちなんで名付けられた中華料理店「蘭梅」がオープン。妻は日本語がほとんど話せないにも関わらず、料理を作って、接客もこなしたりと、とても忙しくしていたため、李さんは思い切って仕事を辞めて、妻と一緒に中華料理店を切り盛りするようになった。このように、李さんは夫婦で一緒に仕事に奮闘するようになった。

少しずつ客が増えても、李さんは初心を忘れず、「この店で中国文化を伝えよう」と決めた。李さんの妻は、日本語は苦手でも、古筝(こそう)や伝統演劇・川劇の瞬時に瞼譜(隈取)を変える技巧・変臉(へんれん)が得意。李さんは、「自分たちの行動で、これからも多くの人に中国文化を伝えたい」と語った。 (提供/人民網日本語版・編集KN)