アフリカ南部の国、レソトにて(筆者撮影、以下同)


 バスの中で、眠りは浅い。

 プラスチックのポリタンクの上に座らされているから、ちゃんと眠れないのは当然だ。このバスではポリタンクが補助席代わりなのだ。舗装の甘いガタガタ道に、席は常に跳ねている。

 しかし普通のシートだって負けず劣らずひどい。ノミ、ダニが居ついて、体育館のマットと同じ饐(す)えたにおいを放っているし、2席に3人の汗だくのアフリカ人が座っている(全員大柄だ)。彼らは半分まどろみの中で、うちわを持つ手を機械的に動かしている。

 どういうわけか、灼熱の大地を走りながら、バスは窓を開けることをしない。東アフリカの山岳地帯では、窓を開けて入ってくる風で魂が奪われるから、というまことしやかな噂を聞いた。西アフリカの砂漠地帯では、乾燥した細かい砂粒でバスの中が砂だらけになるから、という実利的な理由を語られた。

 だからバスの中は、サウナ状態になっている。当然エアコンなどない。

 ところどころでバスは検問にかかる。いかめしい顔をしたポリスが近寄ってきてまるで見せしめ的に、乗客の荷物を下ろし始める。運転手が目配せをすると、乗客はうんざりしながら、そろって懐からお札をピラリと取り出す。すべての乗客からお札が取れるまで、ポリスは去らない。

 バスは夜半にプスンと音を立てて止まり、故障が直るまでの1時間、私たちは真っ暗な荒野に投げ出された。酒を売る露店すらない。疲れた顔の乗客が身を寄せ合って道端に座り、子供をあやし、たばこを吸いながら時間が経つのを待つだけだ。

 そんな中、寝不足とバス酔いと、マラリア予防薬の副作用で、私は荒野の隅にうずくまってゲロゲロと吐き続けていた。なんて惨めなのだろうと思う。なんで旅をしているのだろうと思う。答えはない。次の国に着いたらやめようと決める。手持ちの現金をパーッと全部使って一番いいホテルに泊まって、そのまま日本へ帰ろう。旅をする理由などない。もう疲れた。

 西アフリカのセネガルからマリに抜けるバスは、そんな過酷な苦行バスだった。

筆者のアフリカの旅の経路


なぜ苦行の旅を続けられたのか

 アフリカを旅して、10カ月半かかった。

 頻繁に停車する苦行バスの合間に、私はネルソン・マンデラの「Long walk to freedom」(自由への長い道)という簡単な自伝を読んでいた。

 当時まだぎりぎりネルソン・マンデラは生きていて、しかし危篤状態だった。

 南アフリカ、ヨハネスブルクのアパルトヘイト博物館では、彼の死を近い未来に見越して既に特設展にネルソン・マンデラ特集が組まれていた(気が早いが不謹慎だと言うような者はいない)。

アパルトヘイト博物館の入り口。アパルトヘイト時代の南アフリカを再現して2つに分かれている。来訪者は「white」または「non-white」と記されたチケットをランダムに渡される


 特設展のマンデラは、めちゃくちゃかっこよかった。1961年、ちょい悪顔をした投獄前の若いマンデラが、南アフリカの黒人たちを「アフリカン」と呼んで熱く議論するインタビューを、私はずっと眺めていた。そののち、27年分の長く暗い廊下の向こうには、出所後のマンデラが待っていて、そこにいる彼は私も知っている好々爺の顔つきをしている。

 彼は南アフリカの黒人たちのことを、「ノン・ホワイト」などと呼ばずに「アフリカン」と呼んでいた。それが私の耳になぜか心地よく響いた。

 苦行バスの合間に自伝を読んでいると、マンデラが独立前夜のアフリカ各地を訪ね歩いて、各国の「アフリカン」たちに協力や団結を呼びかけたというエピソードがあり、私は彼の訪問国を確かめながら、そこを何度も読み返した。彼はセネガルにも来ていて、漁船も女性も美しいと言っていた。彼にとっては、独立運動に震える60年代のアフリカ各国が「アフリカン」という仲間だった。

 アフリカはつながっているのだ、そう、私は思いたかったのだと気づいた。「アフリカン」という呼びかけは、アフリカはひとつづきなのだという雄大さを含んでいた。「海はつながっている」とか「空はつながっている」とかと同じように。それが、この大陸を旅してきた足跡と重なって、ちょっとしたグルーブ感があった。つながっているのか、どうなのか。もう少し見てみようなどと私は思ってしまった。

(ちなみにマンデラ最後の妻はグラサ・マシェルという、隣国モザンビークの政治家で、モザンビーク独立の英雄の未亡人だった。その「仲間感」にも私はちょっとしびれた)

つながっているけどひとくくりにできないアフリカ

 しかし実際には、アフリカが簡単にまとめられるわけなどない。

 アフリカといってもさまざまな地域があり、ひとくちに「アフリカ人」といっても、部族が違えば言葉も習慣も食生活も違う。

 セネガルは魚出汁を使った炊き込みご飯が主食で、これはかなり美味しかったが、一方エチオピアの主食であるインジェラは、古い雑巾のにおいがしてかなりきつかった。多くの国で主食になっているウガリも、キャッサバからできたものやポテトからできたものからバナナからできたものから、いろいろな種類があった。

 同じスワヒリ語圏でも、タンザニアではスワヒリ語をしゃべる者としての「タンザニア人」アイデンティティがそこそこ育っている一方で、ケニア人はあまりスワヒリ語をしゃべらず、代わりに英語と部族語を話し、「キクユ族」「ルオ族」といった部族アイデンティティが強かった。ナミビアやボツワナにはコイサン族という先住民がいて、彼らは今のアフリカ大陸の主流派であるバンツー語系の黒人(いわゆる「アフリカ人」と私たちが思っている人たち)とは人種が違った。西アフリカをサハラ砂漠に分け入ると砂漠の民が住んでいて、彼らの見た目はアラブ人に近い。

 西洋の引いた恣意的な国境線を責めるのは簡単だが、民族の境界線と国境が今もわりと一致したスワジランド(スワジ人)なんかもある。それに、人為的に民族が作られたルワンダやブルンジなんかもある。

 ポリスはどこでも悪徳だが、それでもましな国はあって、裁判所のセキュリティも国によってまちまちだ。

 インド洋に面した海は青く、アラブ商人の持ってきたスパイスのにおいがした。大西洋に面した海には奴隷貿易の拠点となった島が浮かんでいた。喜望峰に向かう道は地中海性気候でたくさんのワイナリーがあり、酔っぱらってバスに乗ると窓の外にサイやキリンが見えるがそれらは幻覚ではない。

 万丈の山があり、千尋の谷があり、バンジージャンプで飛び込むと、谷間に這うように生い茂る木々の葉の、細かな葉脈までがスローモーションが見える気がして、走馬灯体験はもうこれでたくさんだ。謎の達成感の向こうには、真っ白なしぶきを噴くビクトリアの滝がある。象が歩き、子供が走り、スラムの隣には高級住宅街があって、教会で讃美歌は歌って踊る。レソトと南アフリカの国境にはコンドームが配置されており、ケニアのカジノでは賭け金は20円からだ。

ビクトリアの滝


 バスは揺れ、どこまでも揺れ、赤土の道もどこまでも続く。アフリカの大平原に落ちる夕日は赤く、私はなぜだか感傷的になって、「生きている」と思ったりする。「生きてる、私、アフリカで」などと。それほどに、「アフリカ」という響きの持つ、ひとつづきの乾いたイメージは大きい。

 マンデラが「アフリカン」という言葉を使った時代は、アフリカ各国の独立前夜の60年代だった。旧宗主国(または支配体制としてのアパルトヘイト政権)に対峙するアイデンティティとして、きっと大きなものが必要な時代だった。その切実さが「アフリカン」という言葉を選ばせたのだと思う。マンデラの逝去から3年が経った今も、私はその表現の雄大さに感動する。それでもやはりアフリカは簡単にひとくくりにできるものではないのだと知っている。

違うところと似ているところ

 セネガルからマリへ向かう苦行バスは、結局40時間を要した。

 2日目の明け方、隣に座った大柄なおばさんが、死にそうな顔をした私の腕をつかんでシートに座らせてくれた。ノミダニで首筋がチクチクと痒かった気がしたが、私はやっと少し安心して、眠りに落ちた。後のことは後で考えようと思った。

 アフリカの地域はそれぞれ全然違うけれど、アフリカのビッグ・ママたちは、いつも私を守ってくれる、と私は感謝の中に気づいた。汗っぽい彼女らのにおいはどこか似ていて、違うところを探すのと同じくらい、似ているところを探すのはおもしろい。そう思って私は、大きなアフリカ大陸の地図を広げる。

 次の国でやめよう、を繰り返しながら、「アフリカ」をこじらせた私は苦行バスの後も結局ズルズルと旅を続け、西アフリカの果ての島まで行った。アフリカ大陸25カ国を旅して、10カ月半がかかった。

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筆者:原口 侑子