なぜいま、明治維新に埋められた 「江戸」を掘り起こすのか?

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いよいよ年末が迫り、徳川家康没後400年の年も終わりに近づいている。
江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。
私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきた。
まるで「明治は一流・江戸は三流」といわんとするばかりに……。
だが、はたして本当にそうなのか?
ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。
そして、今回さらに踏み込み、「2020年東京オリンピック以降のグランドデザインは江戸にある」と断言する。
12月9日に衝撃的なタイトル『三流の維新 一流の江戸――「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」』が刊行される著者に「三流の維新 一流の江戸」の意味を聞いた。

江戸と現代は意外と近い

 新撰組二番組長永倉新八(ながくらしんぱち)は、いうまでもなく江戸時代に生まれた人間である。

 正確には、天保十(1839)年に江戸で生まれている。池田屋事変、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いなどの修羅場をくぐって生き延びた永倉が病没したのは、大正四(1915)年であった。

 身内のことで恐縮だが、大正四年とは私の父の生まれた年である。父が永倉の生まれ代わりであるなどといいたいわけではない。

 永倉は七十七歳まで生きたことになるが、特別といえるほどの長生きではなかった。江戸時代と父との時間距離は、せいぜいそんなものであったのだ。

 上総請西(かずさじょうざい)藩林家の当主林忠崇(はやし・ただたか)は、ペリー来航の五年前、嘉永元(1848)年に生まれ、譜代としての筋を通して薩長軍に徹底抗戦し、昭和十六(1941)年、満九十二歳で没した。

 昭和十六年といえば大東亜戦争が勃発した年であり、私の生まれる僅か五年前である。江戸時代と私との時間距離も、せいぜいそんなものであったといえるのだ。

 父の生まれた頃、江戸時代生まれの人口は、約五パーセントであった。
 私の生まれた頃には、それが〇・五パーセントになっていた。
 司馬遼太郎氏は、明治は江戸の遺産で成り立っていたという趣旨のことをいろいろな書き物で述べているが、これに異議を唱えることはできない。仕組み、人材、蓄積されたノウハウ等々、どの面からみても近代明治とは江戸の遺産で生きていたといっていいだろう。

 司馬氏は、高橋是清(たかはし・これきよ)の暗殺死を以て明治国家は終わったとか、昭和四十四年を以て江戸の遺産は尽きたなどと述べることもあり、この種の言い方については一定していないが、それを無視しても、明治維新絶対主義者の司馬氏をしてこういう分析をさせた江戸という時代の歴史に占める「存在力」の大きさに、改めて複雑な愛惜(あいせき)ともいうべき感情を抱かざるを得ないのだ。

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