講師を務めた、梅花女子大学食文化学部食文化学科の東四柳准教授

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一般家庭で毎日のように牛乳が飲まれるようになったのは第二次世界大戦以降のこと。よく言われるように学校給食への供給が一つの契機となったのは確かだろう。その陰に埋もれがちながら、明治維新以降の牛乳・乳製品の普及に向けた動きも無視できないものがある。

2016年12月2日にJミルクは、梅花女子大学食文化学部食文化学科の東四柳祥子准教授を迎え、第45回メディアミルクセミナー「明治・大正期における『牛乳・乳製品』論の系譜〜見直されたその価値と摂取意義〜」を開催した。

明治から大正にかけて牛乳の利用価値がどのように伝えられたのか。東四柳准教授は当時出版された約600点の資料を調べた。1910〜1920年代に牛乳は母乳の代用品から家庭の定番食品へと変化し、進歩的な医療関係者や知識人の尽力によって乳製品の新しい価値が構築されていく経緯を明らかにした。本講演で発表されたのはその成果の一部だ。

アメリカの影響は大正時代から強かった

江戸時代末期に鎖国政策を放棄した日本には大勢の外国人がやってきた。牛乳を欲した彼らは居住地で牛を飼い、搾乳を開始して外国人相手に牛乳販売を始める。一方、武士層は大量失業し、彼らを救済する必要が生まれた。そこでクローズアップされた産業の一つが酪農で、旧藩主や有力旗本、地方の藩士、豪農らが牧場の経営に乗り出す。北海道の開拓地でも欧米の技術を導入して畜産がスタートした。

もっとも一般の印象はよくなかったようで、例えば作家の内田百間は、「御馳走帖」(中央公論社)のなかで次のように書いている。

「年寄りなどはけがらはしい物の様に思つてゐたらしいが、子供の滋養になると云ふので私に飲ませたのであらう」

こうしたネガティブなイメージを克服するには長い時間を要した。

1870年代、国是として掲げられた富国強兵政策のもと、肉食同様、乳製品摂取の意義について説く書籍が増加する。その内容は西洋諸国で認められていた乳製品の特徴、医学的効用、製造法のノウハウなどを紹介するものだった。ただし当時の流通事情は劣悪だったため、「必ず温めて使うこと」「牛や飼い主を吟味してください」「複数の牛の乳を混ぜないように」といった注意が添えられていたという。

続く1880〜1890年代は、小児科医や産婆などの医療関係者、医学博士や医学士、薬学士らから「人工営養品」としての効用を期待する声が増えていった。

「お母さんの母乳が出なかったり、乳母が見つからなかったり、さらにお母さんが亡くなってしまったり、困った場合の対策として哺乳法が登場します」(東四柳准教授)

牛乳はもっぱら母乳の代用品または病人の薬と見なされていた。それが20世紀に入り、家庭の中に乳製品を入れようという動きが活発になる。専門家向けの乳製品専門書、家庭の主婦を対象とした牛乳・乳製品に関する書籍が続々と出版された。

牛の伝染病流行で慎重な意見を述べる人もいたが、東京帝国大学の津野慶太郎教授が安全な牛乳を製造・販売するための技術書を相次いで刊行、国内初の明確な乳製品の検査基準を規定した。さらに津野教授は1921年、日本初の牛乳料理指南書「家庭向牛乳料理」を出す。

当時は日本で栄養学が芽生えた時期でもあり、牛乳にはカルシウムだけでなくビタミンを豊富に含むことが知られるようになる。1922年に岡田道一という小学校医は「学校家庭児童の衛生」という本を出版し、その中で児童期に牛乳・乳製品を飲ませることを推奨した。

食品として見直された背景には、1920年代にアメリカで起きた「牛乳・乳製品」推奨運動の影響もあると、東四柳准教授は話す。アメリカ赤十字が「牛乳は最上食品である重大理由」と称してその理由を10か条にまとめたり、農務省が「子どもも大人も牛乳をもっと飲みましょう、食物は牛乳で調理して食べよう」という内容のパンフレットを発行したり、小学校のランチに牛乳を生徒に飲ませる運動が展開された。こうした一連の取り組みが日本に紹介され、それにならおうという考えが出てきたというわけだ。

「明治期に『得体がしれない』と多くの人が困惑していた乳製品が浸透するのも、1910年代から1920年代の傾向として指摘できるかと思います。戦後の学校給食で子どもたちの身近になっていったのではないかとよく指摘されるところですが、今回の調査を通して、実は明治・大正期にも児童期に牛乳を用いること、とくにアメリカの考え方にのっとりながら、それを生活の中に取り入れていく動きがあったことをみなさんに紹介できたのではないかと思います」(東四柳准教授)