東京藝術大学の音楽学部正門(「Wikipedia」より)

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 芸術界の東大的存在である東京藝術大学。東京・上野などにキャンパスを構える、通称“藝大”だ。入試倍率はなんと東京大学の3倍にもなるらしく、毎年多くの芸術の道を志す学生が受験している。その一方で、「卒業後は多くが行方不明になる」という逸話もある。

 藝大といえば「才能豊かで個性的な学生が集まっている」というイメージがあるが、実際にどんな大学なのか、詳しく知っている人は少ないだろう。

 そんななか、今年9月に上梓されたノンフィクション『最後の秘境 東京藝大―天才たちのカオスな日常―』(新潮社/二宮敦人)が10万部突破のベストセラーとなっている。本書は小説家の著者が藝大の全学科の学生に取材を重ね、それを通じて明らかになった藝大生の実態が赤裸々に記されており、「面白すぎる」と話題になっているのだ。

 そこで、著者の二宮氏に、藝大の2つのキャンパスの違いや本書で明らかになった藝大生の実態などについて、話を聞いた。

●藝大生の妻が深夜に見せた“不審行動”

――本書は、二宮さんにとって初のノンフィクション作品ですが、執筆に至った経緯について教えてください。

二宮敦人氏(以下、二宮) はい。僕の妻が現役の藝大生なのですが、妻からいろいろと話を聞くうちに藝大に興味を持つようになったんです。その話を担当編集者の方との食事の際に話したら、「ぜひ、本にしましょう」という流れになりました。2人とも酔っていたので半信半疑だったんですが、かたちになってホッとしています。

――本書を読む限り、奥様は非常にユニークな方だとお見受けしますが……。何か印象的だった出来事はありますか?

二宮 ある日、僕が深夜に目を覚ますと、隣の書斎で妻が何かごそごそと作業をしていたんです。気になって様子をうかがうと、妻は顔に半紙を貼り付けて自分の顔の型を取っている。まるでミイラのようだったので、「何してるの?」と聞いたら、どうやら彫刻科の課題で自分の等身大全身像をつくりたかったみたいで(笑)。

――かなりホラーな光景ですよね(笑)。相当びっくりされたんじゃないですか?

二宮 正直、「見てはいけないものを見てしまった」と立ち去ろうかとも思ったんですが、勇気を振り絞って声をかけました。後日、用事があって引っ越し業者が家に来た際、帰り際に転がっている妻の型を指して、「これ、なんですか?」と尋ねられました。「決して、犯罪に関するものではないんですよ」と念を押して説明しました。

●同じ藝大?泥だらけの美校と優雅な音校

――引っ越し業者の方も、気になって集中できなかったんじゃないでしょうか。本書のタイトルには「最後の秘境」という言葉がありますが、これにはどういった意味がありますか?

二宮 タイトルは編集者の方が考えてくださったんですが、原稿を読んだときに「こういう場所が、東京に隠されていたんだ」と驚かれたらしいんです。そのイメージを伝えるためにこのようなタイトルをつけた、とおっしゃっていましたね。

――確かに、藝大には秘境感がありますよね。藝大のなかには音楽系の学科が集まる“音校”と美術系の学科のある“美校”があるそうですが、空気感や学生に違いはありましたか?

二宮 如実に違いますね。美校に行くと、ハチマキとつなぎを身につけて手が泥だらけの人が普通に歩いているんですけど、一方の音校はバイオリンを持ち、ハイヒールにワンピース姿で、黒塗りの車から降りてキャンパスに入って行くという感じです。

――同じ大学の生徒とは思えないですね。ほかに、何か特徴的だった違いは?

二宮 取材に対する反応がまったく違いましたね。音校は露出を増やしたいからか、前向きに取材を受けてくれた方が多かったですし、要点を絞って話してくれました。美校は話し慣れていない方が多い印象があり、そもそも取材に乗り気ではないような物静かな人も多かったですね。でも、いざ話してみると、とても面白い方だとわかるんです。おそらく、それまでは人と話すよりも作品と向き合っている時間のほうが長かったのだと思います。

●藝大に出没するブラジャー・ウーマンとは

――本書には「ブラジャー・ウーマン」なる謎の人物が登場しますが、この方は本当に実在するのでしょうか?

二宮 本当にいますよ(笑)。ブラジャーを仮面のように顔につけ、上半身裸で胸にはハート型のニップレスだけ。下半身は黒いタイツの上にピンクのパンツを履いています。藝大の人気者なんですよ。僕も、藝祭に行ったときに一緒に写真を撮ってもらいました。

――普通の大学だったら、警備員に捕まりそうですね(笑)。

二宮 藝大だからこそ、ですよね。彼女は、ある藝大生が高校生のときに描いた漫画に登場する人物で、悪の組織・ランジェリー軍団と戦う正義のヒーローなんです。その漫画には、彼女のライバルであるTバックウーマンも出てきます。アメコミの『デッドプール』をオマージュしているそうで、休みの日に二次元の世界から三次元に遊びに来ることがあり、そのときに藝大に現れるらしいです。

――俄然、藝大に行きたくなってきました。本書を執筆するにあたって、さまざまな学生に話をうかがったと思いますが、二宮さん自身「執筆する前と後で変わった」と思うことはありますか?

二宮 ありますね。僕は今まで「芸術」というと手が届かないイメージがあり、「芸術家は僕とは住んでいる世界が違うんだ」と思っていました。ですが、実際に藝大生に話を聞いていくと、難しい技術を習得するために寝る間を惜しんで努力していたり、芸術と真摯に向き合ったりしていることがわかりました。確かに、結果だけを見ると奇抜で何を考えているのかわからない面もあるのですが、話してみると意外とわかり合える部分も多く、親近感を覚えましたね。

――世の中には、芸術に対して「自己満足の押しつけ」のようなイメージを持っている人も意外と多いですよね。

二宮 でも、僕たちはそうした芸術家の恩恵を、知らず知らずのうちに受けているんですよ。たとえば、電車がホームに入ってくるときの音楽やコンビニエンスストアの入店音、マグカップのデザインなど、どれも芸術を学んだ人が考えているんです。そう考えると、「僕にはできないことを、こんなに真剣にやってくれている人たちがいたんだ」という感謝や尊敬の念が浮かんできて、「もっと多くの人に芸術を知ってもらいたい」と思うようになりました。

●「芸術は高尚で難解」は間違い!

――私たちの生活は、芸術なしには成り立たないというわけですね。本書は、どんな人に読んでもらいたいですか?

二宮 この本を書く前の僕のような、芸術の素人ですね。芸術にあまりなじみがなく、「よくわからない」と思っている人が、芸術について知るきっかけになればうれしいです。

――ある意味、芸術の入門書ということですね。では、最後に読者に向けてメッセージをお願いします。

二宮 芸術というと、高尚なイメージや「襟を正さないといけない」という感覚を持つかもしれませんが、実際はそんなことはありません。カラオケや映画に行くのと同じ感覚でオペラや美術館に行ってもいいんです。別に理解できなくても問題はなくて、100個展示があるうちの1個でも気に入るものがあれば、幸せな気持ちになれるんですよね。

 河原にフラッときれいな石を探しに行くような気持ちで、気兼ねなく芸術を楽しんでもらえればいい。そうすれば、人生に娯楽がひとつ増えるのではないかと思います。

――本日はありがとうございました。
(構成=日下部貴士/A4studio)