ミクシィ社長 森田仁基(もりた・ひろき)1976年、東京生まれ。中央大学総合政策学部卒業。2000年ネットビレッジ(現fonfun)入社。08年ミクシィ入社。11年サイバーエージェントとの合弁会社グレンジに副社長として出向。その後ミクシィに復帰し13年執行役員。同年5月ゲーム事業本部長。14年6月から現職。

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■大企業の面接で惨敗、留年で人生の歯車狂う

【弘兼】先ほどオフィス内で弁当が300円前後で売られていました。美味しいコーヒーが160円で飲めるカフェも併設されています。

【森田】創業者の笠原(健治)もよく列に並んで弁当を買っていますよ。このオフィスには今年9月に引っ越してきました。

【弘兼】パーテーションで区切られた社長室もなく、森田さんも社員とデスクを並べているんですね。いかにもIT系の企業といった開放的な雰囲気です。やはり子どもの頃から自分がこういう業界に進むというイメージはあった?

【森田】いや、全然なかったです。

【弘兼】将来の夢は?

【森田】多くの子どもと同じです。野球をやっていたので、将来は野球選手になりたいとか。大学に入ってからは野球を真剣にやっていた反動か、あまり将来のことを考えていませんでした。スキューバダイビングのサークル活動に明け暮れていましたね。

【弘兼】そのうちに、就活が始まります。ゲームメーカーを中心に受けたのですか?

【森田】いや、ゲームメーカーは受けていません。大学時代はちょうど弘兼先生の「島耕作シリーズ」を愛読していました。それで働くというのは、島耕作のようにスーツを着て会社勤めをするというイメージだったんです。だから、世間一般的に名の通った大企業をしらみつぶしに受けて、ことごとく落ちました(笑)。

【弘兼】大学卒業後はアルバイトをしていたとか。

【森田】歯車が狂ってしまったんですね。大学を留年してしまい、卒業できなかった。大学生のときから、スノーボードとかスキーとかを扱うスポーツショップでアルバイトしていました。卒業後もそこでアルバイトをしていたんです。

【弘兼】そのままスポーツショップで働くつもりはありました?

【森田】そろそろ社員にならないかと誘われました、ただ、自分がそこで働き続けることにしっくりとこなかった。それで次のアルバイト先を探していたところ、派遣会社が見つかりました。しかし、受けてみると見事に落ちた。仕方がないのでそこの会社で派遣登録をしたところ、ネットビレッジ(現fonfun)という会社を紹介されました。

【弘兼】携帯向けモバイルコンテンツを開発する会社ですね。

【森田】はい。そのときは業種がどうのこうのよりもお金が稼げればよかった。スポーツショップの時給が800円、ネットビレッジは1250円だったんです。

【弘兼】それが2000年のこと。

【森田】当時、ネットビレッジは携帯電話で使用する「iモード」のサービスをやっていました。僕はそのサービスに直接関わったのではなく、派遣社員として上場準備室という、総務にあたる部署に配属されていました。そのうちに「森田君、違うことをやってみようか」みたいな感じで、3カ月後に正社員となり、広告宣伝をやることになった。その後は、Webメールサービスを構築するためのディレクションをしたり、営業をしたりしました。それらを5年ほど続けた後に、エンターテインメント事業を担当するようになりました。

【弘兼】ようやく、今の仕事に繋がりますね。

【森田】それも自分がやりたいと志願したのではありませんでした。やる人がいなくてやれという感じで、僕一人でやっていたんです。

【弘兼】そして、今のミクシィに転職したのが08年。これはヘッドハンティングだったのですか?

【森田】いえ、違います。元同僚がミクシィに転職して「ちょっと遊びにおいで」という話になったんです。実はそれが面接でした。そして受かってしまった(笑)。

【弘兼】転職する気はなかった?

【森田】前の会社では1年ごとに担当が変わっていて、それなりに経験を積んでいました。8年勤めていたので、そろそろキャリアチェンジをしてもいいかなとは思っていました。

【弘兼】森田さんが入った頃は、SNSの「mixi」が絶好調でした。

【森田】僕の社員番号は「355」番でしたから、すでに辞めていった人間も含めて、200〜300人の会社だったはずです。売り上げは年間100億近くありました。

【弘兼】前職のエンターテインメント、つまりゲーム開発をミクシィでもやろうと考えていたんですか?

【森田】当時、mixiは2000万人以上のユーザーを抱えていました。このユーザーをプラットフォームとして、第三者に開放することでビジネスになるのではないかと。それが「mixiアプリ」でした。任天堂が作ったゲーム機をプラットフォームとして、他社がゲームソフトを開発しているのと似ています。

【弘兼】ゲームの仕事というのが、私らの世代にはわかりにくい。具体的な仕事というのは?

【森田】簡単に言うと、ゲーム制作のための、「ヒト・モノ・カネ」を集めることです。プロデューサーというとわかりやすいかもしれません。

■“鈴木敏夫”的立場からモンストを生み出す

【弘兼】森田さんの経歴を見ると、11年にサイバーエージェントとの合弁会社グレンジに出向しています。

【森田】mixiをプラットフォームとして様々な会社がmixiアプリを開発するようになりました。その中の一つがサイバーエージェントで、「一緒に会社をつくる、誰か行く人いないか」と言われたときに僕が手を挙げたんです。

【弘兼】森田さんの話を聞いていると、様々な部署に回されても、それを楽しんでいる節がある。

【森田】そうかもしれません。大体は断らないです。

【弘兼】その後、ミクシィに戻り、13年5月にゲーム事業本部長に就任します。そこで森田さんが手がけたのが大ヒットゲームの「モンスターストライク」でした。

モンスターストライク(以下モンスト)は、ロールプレイングゲーム(RPG)の一種に分類される。RPGとは、プレーヤーが登場人物を操作し、戦闘などの試練を通してレベルアップしながら、目的の達成を目指すゲームだ。モンストは自分が育てた「モンスター」を画面上で自分の指を使ってひっぱり、敵のモンスターに当てて倒していくという動作が加わっている。

【弘兼】モンストに森田さんはどのように関わられたのですか?

【森田】木村(弘毅・ミクシィ現取締役)から一緒にやろうと話を持ち掛けられて、僕はプロデューサーとして動きました。会社と交渉して予算、人員を確保。ヒットした後は資金調達やチーム編成を考えていきました。自分で言うのもおこがましいのですが、僕と木村は、スタジオジブリでの鈴木敏夫さんと宮崎駿さんのような関係かもしれません。

【弘兼】なるほど、それはわかりやすいですね。モンストを発表する前のミクシィは、SNS事業が低迷、13年度第1四半期から3四半期連続の営業赤字が続いていました。この事態を打開するにはゲームしかないと考えていたんですか?

【森田】この頃、ゲーム業界では「パズル&ドラゴンズ」(パズドラ)というパズルRPGがもの凄い勢いで伸びていました。各社が「第二のパズドラ」を目指してゲームを開発していた時期でした。僕たちはそこではなく、世の中にないものをつくろうと考えていました。

【弘兼】モンストは、画面をピンピンとひっぱって離すので、気持ちいいんですよね。あと、最大4人まで一緒にプレーできるのも特徴でした。

【森田】面白いだけでなく、みんなでコミュニケーションが取れるものをつくりたかった。もともとミクシィは、SNSというコミュニケーションを重視してきた会社です。みんながスマートフォン(以下スマホ)を持っているのだから、一緒にゲームをやれば楽しいのではないか、というところから入りました。頭を悩ましているときに、スタッフの一人がひっぱって離すだけならば誰でもできるのではないかと言い出したのです。

【弘兼】13年10月にモンストをリリース。売上高は14年3月期の121億円から15年3月期には1129億円と大幅に上がりました。ただ、ゲームというのは一定の時間が経った後には、ユーザーに飽きられるものです。そのための対策は?

【森田】まず前提として、僕たちが手がけているスマホを使用するゲームは、ゲーム専用機のゲームとは性質が違います。ゲーム専用機の場合、一つのゲームをクリアすると、次のゲームに移っていきます。一方、スマホのゲームは、自分が遊んだ時間が手持ちのスマホに蓄積されていきます。獲得したレベルやキャラクターが積み上がっていくわけです。ですから、I、II、IIIといったように、スマホのデータを引き継いだうえでのシリーズ展開が大事だと考えています。

【弘兼】森田さんはモンストの成功を認められて、14年6月に代表取締役社長となりました。社長に指名されるという予感はありました?

【森田】まったくなかったです。

ミクシィは、97年11月のWeb系求人情報サイト「Find Job !」の運営からスタート。99年に創業者の笠原健治(現取締役会長)が有限会社イー・マーキュリーを設立、04年にSNS「mixi」の運営を開始、06年2月に社名を「株式会社ミクシィ」に変更し、同年9月にマザーズ市場に上場している。

13年6月、コンサルタント企業のマッキンゼー出身の朝倉祐介が社長に就任。森田は1年で朝倉の後を引き継ぐことになった。

■SNS「mixi」と同じ失敗はもうしない

【森田】前社長が就任したときは、ミクシィが最も厳しい時期で、コンサルティングの知識を必要としていたのだと思います。そこを抜けたので、事業を伸ばしていくときに、自分に白羽の矢が立ったのではないかと自己分析しています。

【弘兼】社長の打診を受けたとき、どう思われましたか?

【森田】ミクシィの業績が落ちたとき、僕は執行役員だったんです。当時、「ミクシィは終わった」と叩かれたこともありました。執行役員として社員に申し訳ない、不甲斐ないと思っていた。モンストがヒットしたときも、最初は「まぐれ」だという評価でした。それを見返してやろうと。自分のためというよりも社員のためという気持ちです。ゲーム事業を中心に経営資源をコントロールすれば、社長はやりきれると考えていました。

【弘兼】16年3月期の決算でミクシィの売上高は2087億円、営業利益は950億円。とはいえ、この多くはモンストによるものです。モンストに依存するリスクがあります。

【森田】話に出たように、かつてのミクシィはSNS事業に特化していました。そしてその事業が落ちていくと、急な軌道修正ができなかった。同じことを繰り返してはいけないということは常に頭の中にあります。

【弘兼】それが美容師と客のマッチングサイトの「minimo(ミニモ)」、あるいは女性から男性にアプローチをする「Poiboy(ポイボーイ)」などといったゲーム以外の事業展開ですね。なかでも目についたのは、15年3月に115億円で買収した「チケットキャンプ」。これはユーザー間でコンサートやスポーツ観戦などのチケットを売買できるサービスです。このサービスは使いようによってはチケットを転売して利ざやを不当に稼ぐ人間を利することになってしまう。音楽業界からも「チケットの高額転売に反対します」という共同声明が出されています。

【森田】はい。これは難しい問題です。僕たちも営利目的で悪質な転売をしている人間は排除しなければならないと考えています。ただ、僕たちが提供しているのはあくまでもプラットフォームです。こちらで値段を決めることができない。チケットの所有者はあくまでも出品者であり、そこに介入するのが難しいんです。

■100年続くために「若い感性」を求める

【弘兼】転売目的の人間と、都合で行けなくなりチケットが余って困っている人間の区別がつけられない。

【森田】チケットというのは特殊な商材だといえます。チケット期日を過ぎれば、価値がゼロ、紙切れになってしまいます。そのため、これまでは個人的な繋がり、あるいはツイッター、オークションサイトで取引されていました。ただ、そのやり方には、偽チケット、詐欺などの可能性が出てくる。そこでチケットキャンプは、お金をいったん預かり、買い手がチケットを本物だと確認した後に入金することで、取引の安全を担保することにしました。その意味で社会的意義はあると思っています。今後、チケット販売に携わる様々な方々と話し合いを進めながらいい方向に持っていければと考えています。

【弘兼】ミクシィはSNSから始まって、ゲーム、チケット仲介など様々な分野に手を広げています。森田さんはミクシィという会社をどのように定義していますか?

【森田】インターネットやスマホを使って世の中を変えていくためには、“なんでもやる!”という会社です。

【弘兼】IT業界というのは、ほかと比べても栄枯盛衰、プレーヤーの入れ替わりがもの凄く早い。その恐怖はありますか?

【森田】SNSに頼っていたミクシィがまさにそうでしたから。事業が上手くいっているときこそ、リスクを抱えていると僕は考えています。モンストを立ち上げたとき、僕たちは背水の陣だったから、突っ走れたという面があります。その意味で、今のミクシィには余裕がある。危機感を敢えてつくり出して、組織を運営していくことも必要でしょうね。

【弘兼】森田さんは現在40歳。私たちの世代に比べれば若いけれど、ITの世界では次々と若い才能が出てきています。今後のミクシィの舵取りをどう考えていますか?

【森田】僕も頑張って世の中のトレンドを先読みして、これまでにないサービスを生み出していきたいと考えています。しかし、恥ずかしながら、僕が理解できないようなサービスというのもありえる。若い感性というのが必要になってくることもあるでしょう。ミクシィは僕で3代目です。100年続く会社となるためには、何度か脱皮していかなければならないのだろうなとは感じています。

■弘兼憲史の着眼点

▼飄々と1人で現れる、会ったことのないタイプ

年齢、職種もありますが、ミクシィ3代目の森田さんは、過去に会ったどの社長にも似ていない。彼はいつもおしゃれで、若々しい。そして秘書や広報担当を連れることなく、飄々と一人で現れる。彼を知らない人が見れば、30そこそこの、アパレル関係者と思うことでしょう。

森田さんはミクシィについて、インターネット、スマートフォンを使って世の中を変えていく会社だと定義しました。つまり、可能性は無限大にあると。しかし、この世界は自動車などの製造業と違い、設備投資、技術の蓄積が、短期間でひっくり返る可能性がある。そのため、森田さんのような軽やかな社長というのは必然なのかもしれません。

将来の自分の像について彼はこう言います。

「いろんなことに首を突っ込んでいきたい。今はスマートフォンにより、世の中が変わっている瞬間。そこに立ち会えていることが嬉しい」

我々の世代は介護という大きな問題を抱えています。森田さんのような若い世代に、こうした社会的な問題解決もお願いしたいと切に思うのです。

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弘兼憲史(ひろかね・けんし)
1947年、山口県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)勤務を経て、74年に『風薫る』で漫画家デビュー。85年『人間交差点』で第30回小学館漫画賞、91年『課長島耕作』で第15回講談社漫画賞、2003年『黄昏流星群』で日本漫画家協会賞大賞を受賞。07年紫綬褒章受章。

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(田崎健太=構成 門間新弥=撮影)