純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 大阪、それも南部に来れば、だれでもめんくらう。なんやぁこれ?と思うような、どでかい、こんもりとした山が住宅地の間に現れるからだ。東京で言えば、銀座全域くらい。それが三重の周濠で囲まれ、誰ひとり立ち入ることが許されない禁忌の場となっている。それも、はるか古代に日本人が人工的に作った、ということになると、とにかく圧倒されてしまう。


 まあ、墓だ。しかし、いくら天皇だとはいえ、当時の身長160センチそこそこの人間を葬るのに、なんで500メートル近い墓を作ったのやら。単純な土山とはいえ、これを作るには、当時の技術でおよそ16年はかかっただろう、と言われている。しかし、5世紀、400年代には、その百年の間に、墳丘長200メートル以上の巨大な古墳を奈良大阪あたりだけで8つも作っている。中小規模のものまで数えたら、キリが無い。


 いちばんめんくらうのは、このわけのわからないものが、ぐちゃぐちゃの方角を向いて、山辺(奈良盆地東南部)、佐紀(奈良盆地北部)、古市(藤井寺の近く)、百舌鳥(もず、堺駅の南)にひしめいている、ということ。地図上にいっぱい線を引いて、古代天文学が、とか、レイラインが、とか言っているシロウト古代史マニアもお手上げ。実際、古代日本人は、だれも見ない古墳の石室の中にまで星座図を正確に描き込んだような連中だ。いったいどうなっているのやら。


土石流対策としての古墳

 一番古い前方後円墳とされる箸墓。大物主(大国主)を祀る三輪山の麓にある。3世紀後半に突如、280メートルもある巨大な人工の山が建設された。宮内庁は、第7代孝霊天皇の娘で、大物主の妻、迹迹日百襲(ににひももそ)姫の墓としているが、兄貴の第8代孝元天皇陵(奈良県橿原市石川町)よりはるかにでかい。それで、彼女こそ卑弥呼じゃないか、とか、いや、箸というのだから、土師(はじ、大国主系、埴輪業者)氏のだろう、とか、いろいろ言われている。


 これは東北を向いている。しかし、地図だけ見ていてもわかるまい。現地に行くと、事情は氷解する。この古墳は、三輪山の北の谷筋、その土石流を迎え撃つように設置されている。もっとも現代の景観ではわかりにくい。当時、急激な人口爆発で大量の木材を燃料として消費し、この地域の山々は、山頂まで岩が露出するほどだっただろう。そもそも奈良中南部は、台風など、集中豪雨が長期に渡って繰り返し、また、山様も固い花崗岩ながら古く、劣化が進んでおり、大きな断層もある。とくにこの時代、古墳寒冷期として気候が極端に不安定で、実際、各地で大洪水を繰り返し引き起こしている。つまり、ちょっと雨が降り続いただけでも、でかい石がごろごろ麓に襲いかかり、村も田も滅ぼしてしまう、ということだ。殉葬を止めたのはもっと後の第11代崇神天皇になってからなので、迹迹日百襲姫が三輪山を神体とする大物主に嫁いだ、というのも、生きたまま土石流対策のための土塁古墳の人柱とされたのではないか、とさえ思える。


 この後、茶臼山(桜井市)と西殿塚(天理市)に北向きで、それも丘の中腹に作られるが、メスリ山(桜井市)は東向きに、鳥見山南の土石流谷の正面に構え、西の天香久山地域を守っている。このころになると、円筒埴輪列が三段に施されているのが特徴的。さらに、箸墓の東北、4世紀に作られた行燈山(第10代崇神天皇陵?)と渋谷向山(第12代景行天皇陵?)は、双子の古墳で、左右から山の谷を向き、それぞれ柳本と纏向(まきむく)の町を防御。


灌漑用溜池としての古墳

 4世紀末になると、五社神(第14代神巧皇后墓?)、石塚山(第13代成務天皇陵?)、陵山(みささぎやま)など、後の平城京の北にぼこぼこでかい古墳が作られる。佐紀盾列古墳群と言う。いずれも北向きだが、この先に土石流を起こすような山は無い。せいぜい標高100メートル強の丘があるだけ。


 だが、問題はこの丘。この丘の北に、奈良盆地の東の木津川山地をぐるっと迂回してきた木津川が流れており、そっち側の標高が36メートルほどしかない。一方、南の奈良盆地側は70メートル。奈良湖が干上がってしまって以来、東の佐保川、西の秋篠川より南は、これらの川から水を引けたが、その間のところ、つまり、その後の平城京の一帯は、農業用水が確保できなくなっていたのだ。


 そもそも、古墳以前に、このあたりは溜池がいっぱい。『日本書紀』によれば、水上(みずがみ)池(狭城(さき)池)は、第10代崇神天皇が作ったとされているから、溜池の方が古墳より古い。つまり、これらは埋葬地としての古墳を古墳として作ったのではなく、溜池を掘った残土を中の島として積み上げ、その上に天皇や王族を葬った、というのが実情だろう。


 水上池もそうだが、奈良や大阪の古い地図を見ると、溜池にはたいてい中の島があったことがわかる。それは掘った残土を処分するためだけではあるまい。保水のために、多くの水を含みうる土山は有効だったのだろう。とくに池を掘る場合、自然堆積のシルトや粘土の層を破ってしまうと、それはただ空堀になるだけで、水は地中に染み込んで抜け出てしまう。だが、本来のシルトや粘土を含んだ残土を中の島にすれば、そこから細かな粒子だけが時間をかけて堀の側に流れ出し、やがて池の底を耐水コーティングすることになる。古墳表面の葺石や、くまなく何段にも並べられた円筒埴輪列も、そのための土壌濾過装置として機能していたのだろう。


再び土石流対策の古墳

 5世紀になると、大阪河内の古市に、さらに巨大な400メートル級の古墳が作られる。誉田(こんだ)御廟山、いわゆる第15代応神天皇陵(墳丘長425メートル)だ。しかし、これも、別稿で述べたように、第10代崇神天皇が、これより先に石川中流から住吉まで河内平野と狭山平野を横断する大溝(おおうなで、運河)の大土木工事を開始しており、同時進行の連携プロジェクトであったことが伺える。


 詳細な標高図を見ると、石川は、かつて200メートルも今より西、山崎製パン阪南工場から羽曳野古市郵便局のあたりを流れて来て、今の170号のバイパスの方にも二股に分かれていたことがわかる。その分岐点、古市駅の東、今の真蓮寺のあたりにあった広い河原こそが、本来の古市。だが、ここは同時に石だらけの石川の土石流の直撃を受けるところでもあった。そして、応神天皇陵は、金剛山と葛城山の間の谷からとめどなく崩落してくる、まさにその石川の土石流の吹き出し口に立ち向かっている。羽曳野台地から切り離されてしまった石川河川敷の中の島尾根の突端にあって、その島尾根が破壊されてしまうことを防いでいる。ここを突破されてしまうと、藤井寺インターのあたりの広大な農作地と村々が土石流で全滅してしまうのだ。


 このすぐ東北に、応神天皇陵に続いて作られたと思われる、応神天皇の皇后、仲姫の墓とされる仲津山がある。これは応神天皇陵と直角に向いている。しかし、これも、現道明寺天満宮(当時は土師氏城館)の丘の間から直撃してくる東の大和川の土石流を迎え撃つように作られている。また、5世紀後半の市ノ山(第19代允恭天皇陵?)は、東に大きくずらされた石川に対処するため、ふたたび南を向いている。


 なんで古墳なんかで土石流と対抗しようとしたのか、よくわからない。だが、中国などの陵墓が永遠の安住の部屋として贅沢な生活の家財や食料が石室に納められているのに対し、日本の古墳の副葬品は、鎧や剣などの武器がやたら多いと聞いている。葺石は装甲、石棺は塹壕だ。どうも日本の古代の天皇は、死してなお災厄と戦う第一線に立たされ、神鎮めの責務を負わされたようだ。陵を「みささぎ」と読むのも、丁寧語の、御捧ぎ、ではなく、文字通り、身捧ぎ、だったのかもしれない。


 これら三つの巨大古墳(これらの間に小さいものがいくつかある)で支えられた川中島で、羽曳野の洪積台地は終わる。その北は、沖積平野だ。南からの石川の土石流だけでなく、東からの大和川の土石流も受ける。いまの景観からは想像もつかないが、当時は耕作地とはいえ、保水表土のほどんどない石だらけの河原だっただろう。それゆえ、応神天皇陵は、標高25メートルの頭部で土砂を受け止め、そこから得た水を後の直線部でオーバーフローさせることで、シルトや粘土の溶けた泥水だけを北側の標高20メートルの耕作地に供給していたのではないか。水田には、この耐水性のある泥の層を形成することが不可欠なのだ。


再び灌漑のための古墳

 これに前後して、5世紀初めには堺に上石津(百舌鳥耳原南陵)、第17代履中天皇陵も造られている。墳丘だけで365メートル、当時は二重壕で400メートルはあっただろう。しかし、ここは洪積台地上で、土石流の危険性などない。となると、佐紀盾列と同じく灌漑用溜池であったのだろう。この南に踞尾(つくお)村の谷があるが、ここに泥と水を供給していたのではないか。


 ところが、どうも西側の神石村も干潟干拓で水を使おうとしたようで、その東北に、さらに巨大な、というより世界最大、486メートルの大仙、第16代仁徳天皇陵が造られる。これは、現在の大仙公園の池の谷から西に泥と水を供給することができる。ただし、干潟の干拓となると塩害があり、相当量の水を必要としたのではないか。この仁徳天皇陵は、崇神天皇によって造られた依網(よさみ)池(現阪南高校グラウンドあたり)の方向を向いており、ここからまっすぐに水を引いてくるつもりだったのだろう。


 箸墓や応神天皇陵のようなアンチ土石流型古墳にかぎらず、佐紀盾列や百舌鳥の溜池泥水供給型の場合も、丸い側が上流で、方形側が下流になっていた。おそらく、丸い側で周囲の湧き水を集め、方形の直線部で水をひたひたとオーバーフローさせることで、石や砂利を沈殿させ、粒子の細かいシルトや粘土の溶けた泥水をうまく梳き取っていたからだろう。もしくは、もっと積極的に、葺き石の上へ大勢の人々が土を運び上げ続け、そこからガラガラと大量の土砂を周濠に落とすことであえて泥水をこねって作っていたのかもしれない。このシルトや粘土の溶けた泥水こそ、水が抜けない田を作るためには不可欠なのだ。


 ところが、5世紀半ばも過ぎると、古市古墳群の方で、白鳥陵(軽里大塚、ヤマトタケル陵、190メートル)、第14代仲哀天皇陵(岡ミサンザイ、惠我長野西、242メートル)など、台地の尾根の突端に、丸い側を平野の方に突き出した逆向きのものがいくつも出てくる。これらは、むしろ石川中流から完成しつつあった大溝のオーバーフローを直線部で受け、丸い側で再びオーバーフローさせて、周囲に均一に水を分配する施設だったと思われる。このころにはすでに周辺の水田の底(地下30センチくらいのところ)に泥の保水層ができ、あとは水だけを供給すればよくなっていたのだろうか。


 いずれにせよ、石川から住吉までの大運河計画は、簡単には行かなかった。台地を降りたところ、羽曳野平野を横切ろうにも、底に保水性が無かったからだ。それで、6世紀になっても、河内大塚山(335メートル、第21代雄略天皇陵?、河内松原の東)が造られる。これと連携して着工されたのが、狭山池と東除(ひがしよけ)川・西除(にしよけ)川。保水性のある台地の最後のところに1キロ、18メートルもの高さの堤防を築いて、狭山平野の両脇、平野より高く固い河岸段丘に水路を造り、大運河の水を補おうというもの。616年に、その狭山池の堤防が造られたことが確認されている。


 しかし、これはおそらく計画倒れに終わった。というのも、このころすでに時代は政争の混乱に陥っていた。500年ころは大伴氏が勢力を誇っていたものの、539年には物部氏により失脚させられる。その物部氏は587年に蘇我氏と聖徳太子に討たれ、645年にはその蘇我氏も中(なかの)大兄(おおえ)皇子(おうじ)に滅ぼされる。この間に半島との関係も失われ、渡来人も減り、古代の国家規模のメガ土木プロジェクトも途絶え、西暦500年以前の日本の歴史の伝承も失われた。


※ 作図に関しては、埼玉大学谷謙二准教授が開発した「今昔マップ」および「Web等高線メーカー」を活用させていただいた。あらためてお礼申し上げたい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)