前大阪市長の橋下徹氏と、国際政治学者の三浦瑠麗氏との間で論争が起きている。争点は、橋下氏の過去の従軍慰安婦発言をどう評価するか。橋下氏は公式メルマガ《橋下徹の「問題解決の授業」》でも三浦氏批判を展開。一連の批判を受け、三浦氏が論じる。

■維新は自民党に本質的に対抗できる

先日、橋下徹さんと慰安婦問題についてテレビやツイッターで議論になりました。その中で、私の発言について「自称インテリ」の「勉強不足」としてご批判を頂きました。私は、議論とは深めることに意義があり、日本に存在する「ハイ論破!」という文化は有害だなと思っています。官僚が使う言葉を借りれば「議論するときは同期」という姿勢こそが正しい、と。若輩者で政治経験もないのに、政治家を評論し批判するなど100年早いと言っておられるのでしょうが、それでは議論は成り立ちません。年長者や政治経験者以外の言論に意味がないというのであれば、それは橋下さんが抗ってきたエリート支配の肯定に等しい。せっかくの機会ですので、人生の先輩であり、多くの点で評価する橋下さんにも同じ姿勢で臨みたいと思います。

橋下さんの発言について、私が申し上げたかったことは2つ。1つは、慰安婦問題の中でも、特に南洋における事実認識が違うこと。もう1つは、氏の慰安婦問題の提起の仕方に問題があったことによって維新への期待が萎み、日本政治にマイナスの影響を及ぼしたことです。

慰安婦問題をめぐる議論が、「強制性」の解釈や、軍の「組織的関与」の有無に偏っていたとの問題意識は共有します。問題の本質は、慰安婦制度を含む戦場における性暴力であるとの点も異議はありません。しかし、であるからこそ、氏の「他国も同じようなことをしていた」という発言は、これまで語られることの少なかった南洋の悲惨な実態を思うと、正当化できないのです。

私は、日本人が特に邪悪であったなどと言いたいわけではありません。負けている軍隊の下に最も悲惨な状況が出現するという、時代と国を超えた傾向を指摘しているのです。日本軍は南洋戦線において、戦史に稀な悲惨な戦闘を行った。橋下さんが挙げたように連合国のノルマンディーにおける性暴力はひどかった。擁護する気など毛頭ありません。しかし、第2次大戦中、かたや補給も行われ、一定の軍律が保たれ、記録も存在する軍隊と、かたや補給を絶たれ、組織が崩壊し、記録する者までが息絶え腐っていった軍隊の違いは自明です。客観的資料は少ないですが、限られた生存者の聞き取りや、軍事法廷の証言は、人間として直視できないほどです。

慰安婦問題の提起から生じた一連の経緯で、橋下さんと維新運動への期待は萎みました。仮に橋下さんの意図が慰安婦問題をめぐる「国際比較の必要性」にあったとしても、世論はそうは受けとらなかった。「(兵士に)休息をさせてあげようと思ったら慰安婦制度が必要なのはこれは誰だってわかる」との発言や「(沖縄で米軍は)もっと風俗業を活用すべき」との発言とセットで解釈されたからです。そこに悪意ある切り取りが存在したことは否定しません。ただ、そこは政治家としての結果責任を見ざるをえないと思うのです。

発言の影響は大きかった。今日に至るまで、維新への女性の評価は相対的に低いのです。大阪都構想の住民投票では、女性の賛成票は世代によっては15ポイントも低かった。海外での評価はもっと顕著で、維新は男尊女卑の反動右翼との見方が定着してしまっています。

私は、維新という政治運動が持っている可能性を一貫して評価してきた、政治学者の中では圧倒的な少数派です。むしろエリート支配が行き過ぎることによる危険に警笛を鳴らしてきました。私が書いてきたものについてご存じないのは仕方ありませんが、自らが敵だと認識してきたものに似せて私を模(かたど)るのは、案山子論法であり、的外れです。

私が指摘してきた維新の持ちうる最大の可能性は、自民党の最も本質的な対抗勢力として、この国の政治に持続可能な二大政党制を定着させられるかもしれない点です。そのとき、維新が旗印とすべきは「反利権」や「地方重視」や「自由」だと思っています。橋下さんの政界復帰を期待する声は今なお強いし、私もそう思う一人です。それ故に、過去の失点をいたむのです。

間違いを認めるのは弱さではないと思います。観察者を叩くのは強さではないと思います。喧嘩上手もいいし、既得権益に食ってかかり、対立点を強調するスタイルが必要な場面もあるでしょう。しかし長い目で見れば、国民はリーダーのハートを見ています。

(国際政治学者 三浦瑠麗=文)