公開前から前評判の高いアニメ映画『この世界の片隅に』/[c]こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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こうの史代さんの漫画が大好きだ。「自分の親しい人すべてに渡して回りたい」。こんなことを思うくらい僕には特別な本なのだ。

【写真を見る】“大事”なもの奪われながらもすずは、工夫を凝らしながら生き抜く/[c]こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

どの作品を読んでも心が張り裂けそうになり涙してしまう、しかし読後は不思議と清々した気持ちになる。そして愛しい人を想ってしまう――。

こうの先生の漫画は何も決めつけない。説明がなく、登場人物の豊かな表情と綿密なカット割り、会話、風景で構成されているため、多大な余地を読者に委ねている。各々の心を介すことによってその作品世界が強度を持つ。だからこそ平等に愛しく、寂しい。こんな漫画体験をほかに味わったことがない。漫画が漫画でなければならない理由すべてがこうの先生の漫画にあると思ってしまうほどに唯一無二だ。その中でも「この世界の片隅に」の体験は僕にとって衝撃的過ぎるものだった。

時は流れて、「この世界の片隅に」のアニメ映画化の噂が流れてきた。クラウドファンディングでパイロット版の資金を集め、手掛けるのは『マイマイ新子と千年の魔法』の片渕須直監督だという!片渕監督の『マイマイ新子と千年の魔法』には、一部の特別な業界の人間のみで作られるわけではなく、市井の人々の心がつまっていた。特別な出来事が何も起こらなく、そこにいた女の子の日常を優しく描いていて、大変感動させられたことを覚えている。素晴らしい監督が、なおかつこんなに心踊る映画の作り方をしているとは。嫌が応にも映画『この世界の片隅に』への期待が高まっていった。

試写で本編を見て、冒頭の単なる風景描写から涙が止まらなかった。10秒も待たず心がこの映画を受け入れたのだと思う。こうの先生が漫画で突きつめた表現を片渕監督は原作の表現を何も捨てずにアニメーションで返答した。これは本当にすごいことだ。より生々しくリアルさを持って色づけされていたのは、当時の生活の息遣い、実際にその時代にあった美しい風景、憎むべき戦争の道具…。その場所にいたであろう人々の姿に、瞬きも忘れるほど目が離せなかった。原作の世界をさらに理解できた気がした。

いくらでも良いと思うところを挙げられるが、心から素晴らしく感謝さえ送りたいと思うことは、このすずというキャラクターをのんが演じたことだ。少したどたどしいこの声で、一人の名もなき少女が昭和の初めに広島、呉を生きている、そこにいたということを強く認識させてくれる。「ありがとう この世界の片隅に うちを見つけてくれて」という声を聞いた僕は平静ではいられなかった。今まさに小さな居場所さえも奪われようとしていた女の子のこの言葉。胸が切りつけられるように痛い。のんが演じるすずを媒介にして、すべての景色、事象が、力強く、優しく映る。誰もがこの世界の片隅にいるということを深く感じさせてくれる。

言われのない暴力が少しずつ歩み寄ってくるこの不可思議な時代に、『この世界の片隅に』が存在してくれたことを本当に感謝したい。【文/大関泰幸 構成/トライワークス】