家族とは10年以上会っていない(右がI氏)

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 公安関係者が「誌面に絶対掲載しないこと」を条件に、本誌記者に一枚の写真を提示した。

 そこに写っていたのは一人の日本人男性だった。彼は銃弾や手榴弾を装備した戦闘服を身にまとい、自動小銃カラシニコフ(AK‐47)を構えている。白髪の交じった長いあご髭をたくわえ、日焼けした精悍な顔の男は、深いシワの刻まれた目尻を下げて、薄笑いを浮かべている──。公安関係者はこう続けた。

「今年撮られたと思われるこの写真を入手したのは7月頃だ。“フィリピンのIS(イスラム国)”と呼ばれるアブサヤフのメンバーの集合写真を拡大したもので、この日本人も組織の一員だと思われる。驚くのは、彼が2010年にフィリピンで拉致されたI氏である可能性が非常に高いということ。

 これまで安否不明だったI氏が、テロ組織の一員になっていたことを示唆する写真だと考えている」

 I氏の拉致事件は、当時日本でも報じられていた。報道によれば、広島県出身のI氏は、2010年7月にフィリピン南部スールー州パングタラン島でイスラム過激派組織とみられる約10人の武装集団に拉致された。犯行声明や身代金要求などはなく、犯人グループの狙いは不明のままで、その後の消息はわからなくなっていた──とされる。

 イスラム過激派組織に拉致された日本人は、これまで悲惨な末路を辿っている。2014年、元ミリタリーショップ経営者の湯川遥菜氏、ジャーナリストの後藤健二氏は、共にシリアでISに拘束された。ISは日本政府に対し2億ドルの身代金を要求。しかし解放交渉は成らず、2人は首を斬られて殺された。

 しかし、同じくイスラム過激派に拉致されたはずのI氏は、湯川氏や後藤氏とは状況がまったく異なる。I氏は拉致事件から約2週間後、拉致現場から約40キロ離れたスールー州ホロ島で姿を目撃されている。ホロ島はアブサヤフの活動拠点だ。前出の公安関係者はこう語る。

「I氏は拉致された時、イスラム名も持っていたといわれる。イスラム教に改宗し、現在はアブサヤフと同行できる立場にあるのかもしれない。I氏が戦闘員となり外国人の拉致、誘拐に関与している可能性はないか注視している」

 かつて日本に妻子がいたI氏だが、マニラで知り合ったフィリピン人ホステスのJさんと1988年に結婚、2人の息子をもうけた。中部ビサヤ地方でレンタルビデオ店を経営していたという。が、1990年代後半にI氏はJさんの元を去り、ミンダナオ島のディポログに引越し鍼灸院を開業した。

◆戦闘員に昇格した

 だが2004年頃、ミンダナオ島のアパートの改築を機にI氏は消息を絶ち、その後の足取りははっきりしない。Jさんや交流のあった現地邦人とも疎遠になった。知人たちの間で彼の名前が久しぶりに上がったのが、2010年7月の拉致事件だった。報道こそされたが、日本政府が救出しようとした形跡は窺えない。

 拉致直後、フィリピンに渡る前に日本で結婚していた元妻を、所轄の警察官が訪ねている。元妻が言う。

「Iの近影写真を見せられて、“本人に間違いないか”と聞かれました。すごく痩せていたけど間違いなくあの人だったから、“そうです”と答えました。日本で身寄りがない人だから、何かあれば私に連絡が入るとは思います。結局、事情を聞かれたのはその時の一度だけで、その後は何の問い合わせもありません」

 当初、公安当局はI氏の消息を掴むため、イスラム過激派に接触を試みていた。

「I氏を拉致したのはアブサヤフだと判明し、すぐに情報を探った。するとI氏がイスラム教に改宗し、複数の過激派組織と繋がりがあったとの情報が入ってきた。その後も、I氏は“アブサヤフのコックになった”“戦闘員に昇格した”などの情報も寄せられ、“彼は拉致被害者なのか?”という声もあがった」(前出・公安関係者)

 そんな中、公安はI氏がアブサヤフのメンバーであることを示唆するような写真を入手したのである。I氏の現状について、スールー州警察の本部長はこう話す。

「I氏はアブサヤフのメンバーとして、医療関係の活動に従事している可能性がある。なぜ彼がそのような状況なのか、調査にはもう少し時間が必要だ」

 去る10月、安倍首相は訪日したドゥテルテ大統領と会談し、フィリピンでのテロ掃討作戦を支持したばかりだ。日本政府がI氏の消息に興味を失う間に、彼がイスラム過激派のメンバーになっていたとなれば、日本国籍を有する者がフィリピン政府を相手にした不法行為に加担している、という構図になりかねない。公安の動揺には、そうした背景も透けて見える。

 それでも外務省はI氏の現状について、「2014年9月に“アブサヤフに拘束されている日本人がいる”、と海外の通信社が報じたことは把握しているが、それ以上は回答できない」(邦人テロ対策室)とするのみだった。

 拉致から6年。放置され続けたI氏の消息は、日比外交の大きな懸案事項になる可能性が出てきた。

●取材協力/水谷竹秀(ノンフィクションライター)

※週刊ポスト2016年11月25日号