ビヨンセのCMAアワードの論争がトランプの勝利を暗示していた理由

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CMAでのビヨンセとディクシー・チックスの演奏への強烈な反発は、多くの投票者の恐怖と怒りを反映していた。

こうなることは分かっていたはずだ。後知恵だが、先週のCMAアワードでのビヨンセとディクシー・チックスの賛否が極端に分かれた演奏から、ドナルド・トランプの驚くべき、そしてひどく苦々しい勝利を占えたかもしれないのに。そこで即座に巻き起こった反発は国が割れることを示唆し、8日の夜、ヒラリー・クリントンが大統領になるのを感情的に断固拒否する彼らとの対立を、不気味で醜い一条の光で照らしていた。

およそ政治とは関わりのない白人中心の授賞式のショーの舞台の上には、パワフルで自立した有色人種の女性が、同様な強さをたたえた3人の女性と共に並んでいた。多くの人々にとって、ビヨンセとチックスの姿は侵入者であり、歯に衣着せないギャングであり、ステージ上でのエリート的な外見だけでなく、外国製のおそらく“より良い”音楽をもたらす、政治的に国家転覆を狙う煽動者のように感じられていたのかもしれない。だが、ビヨンセもナタリー・メインズも何も語らず、マール・ハガードの墓に唾することもなく、多くの者の目に映ったのは、ビヨンセの『ダディ・レッスンズ』の丁寧な演奏以上のものではなかった(とはいえ、マインズはのちにツイッターのフォロワーに応え、「ビヨンセと一緒に唄うっていう自分の夢を叶えるために彼らを利用したのよ。彼らの払いでね」とCMAを嘲っている)。ところが一部の聴衆は、ポリティカル・コレクトな輩によって頼みもしないのに何かを無理やり口に入れさせられるような押し付けがましい企て、さらにはアメリカ中部の安全と尊厳への侮辱として受け止めていたのだった。

CMAの主催者が意図していたかいないかに関わらず、この組み合わせはエンタテインメントの枠を超え、昔そうだった良い暮らしが、もはや少しも残されていないと感じているファンたちに向けて投下された政治的ナパーム弾となってしまった。その過去自体、想像の産物かもしれないのに。

ビヨンセとディクシー・チックスのソーシャル・メディアに寄せられたコメントを読んでみて欲しい。これらが的外れであるにせよ、クリントン候補と彼女の選挙運動に寄せられてきたものとまったく歩調が合った考えや発言になっている。

「次回はレイシストの団体をサポートする、反警察のアーティストを呼ばないようにしよう」

「cam[原文のまま]アワードにビヨンセとディクシー・チックスだって? あいつらはみんな反米で、意見を言いに来たのさ。お呼びじゃないよ」

「こりゃCMAにはふさわしくない。ビヨンセはロクでもないものを信じている。なんて人選だ」

「黒人の連中は俺たちを豚だと思ってるから、俺たちのような白人の暮らしには関心ないのさ」

こうなることは分かっていたはずだ。こうした否定しがたい恐怖や怒り、もしくは憎しみとレイシズムは、11月8日の投票所で示されたことそのものであり、正確に捉えていた指標だったのだ。白人、主に農業に携わる人々が、彼らの暮らしのスタイルが抑圧され、さらにそれが最小化されることにうんざりしていたのだった。そして彼らは本当に大切なステージ、つまり投票所のブースで主張した。

世の中の主流から取り残されることにうんざりし、彼らの推した候補が破れる運命にあると語られるのが嫌になり、過小評価されることに激怒した数百万のアメリカ人が、トランプに投票したのだ。

選挙の1週間前にそれらの一部の人々が初めて解き放ったのは怒りだったのだ。その対象はまったく別の、1人の強い女性ではあったけれども。

ビヨンセとディクシー・チックスの第50回CMAアワードで見せた混成部隊のパフォーマンスはこちら。