『この世界の片隅に』11月12日公開 ©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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『君の名を。』も成し遂げていなかったことを、『この世界の片隅に』は達成している!?

映画業界では、かなりはやい段階で多くのひとが次のようにささやいた。

泣けてきそう…な『この世界の片隅に』予告編

「『この世界の片隅に』が今年のベストワンだ。アニメのベストワンじゃない。実写も含めたあらゆる映画のベストワンだ」と。この前評判はダテではない。

この映画を前にしたとき、わたしたちは思うはずだ。アニメ/実写という区分けが、いかに古色蒼然としたものであるかと。賞であれ、なんであれ、「アニメ部門」などというカテゴリーはとっととやめてしまえばいいのにと。

ひょっとすると、ジブリも、エヴァも、押井守も、細田守も、そして『君の名を。』も成し遂げていなかったことを、『この世界の片隅に』は達成している可能性がある。

ただ、もう一点付け加えるべきはーーむしろ、こちらが重要な点なのだがーー、この作品はあくまでも「日本映画」であり、きわめてドメスティックな価値を有しているということだ。

前述した作品群は、もはや死語かもしれないが「ジャパニメーション」の名の下に、海外にも流布できる汎用性がある。なぜなら、徹頭徹尾、アニメーションだからだ。アニメだから、国境を超えることができる。

きわめて逆説的な物言いになるが、『この世界の片隅に』は、アニメ/実写の境界線を抹消しているからこそ、おそらくワールドワイドにはなりえない。

だが、だからこそ、素晴らしいのだ。グローバルではない、ということが、ときに映画の強度を示すことがある。

では、この映画のなにがドメスティックなのか。終戦間近の広島を、市井の一女性の視点から描いているからか? 否。戦時下を見つめる映画は、いつだって容易に国境を超える。

反戦という高らかなメッセージは、どんなに時代が変わっても、世界中のひとびとをひとつにする力になりうる。もちろん、本作を反戦映画として捉えるひとも多いかもしれない。だが、この映画の独自性は、そんな使い古された正義にあるわけではない。

誤解をおそれず、あえて断言するならば、『この世界の片隅に』は、反戦という凡庸な正義など、はるかに超越してしまっている。

主人公、すずの声を担当する「のん」の演技を味わうことができて、初めて真価が浮き彫りになる

端的に結論を言おう。これは、主人公、すずの声を担当する「のん」の演技を味わうことができて、初めて真価が浮き彫りになる「日本映画」だ。

 

「のん」がかつて、『あまちゃん』という国民的ドラマにおいて別な名前で主演していたことを知らなくても一向に構わない。無論、『あまちゃん』を1秒も観たことがなくてもいい。

ただ、「のん」が発することば、そのニュアンス、細部に宿る魂、その核からあふれ出る「声の情景」、それらすべてを享受することができる日本語能力を有していなければ、本作の繊細かつ決定的な魅力を捉えることは、ほぼ不可能だろう。

広島市から呉市に嫁いだ18歳の女の子が体験する悲喜こもごも。映画は、ヒロインが8歳のときから始まり、20歳で敗戦を迎えるまでを追いかける。

嫁ぐまでは比較的テンポよく進むが、これは一種の年代記だ。第二次世界大戦が始まる前から、広島に原爆が投下され、その9日後に玉音放送が流れるまでの激動の12年間が背景が横たわっている。

「のん」はこのバックグラウンドを、見事に背負っている。力演でも熱演でもない。ひょいと、背負っている。この「ひょい」に、すずという娘のアイデンティティがある。

中盤までは、ドラマティックではないことだけが紡がれていく。淡々と、ではなく、すこやかに、ときに小気味よく描く。

決して大きな出来事ではないけれど、真新しい気持ちに出逢うことを、きちんと、でも、肩ひじ張らずに受けとめる様を「のん」は、絶妙なバランスで体現している。

かなしみも肯定する平常心の強さに、わたしたちは救われる

恋をしたわけでもなんでもない相手に嫁ぐことが当たり前だった時代。その当たり前に、そんなものなのかなあ、と微かな違和を潜ませながらも、抗うわけでもなく、馴染みのない場所で、馴染みのない人々と、家族に「なっていく」過程を、ずずならではのマイペースは崩さぬまま、引き受けてみせる。

自ら「ぼうっとしている」と名乗るすずの心のスピードは、モノローグにも聞こえるしダイアローグにも聞こえる、主体と客体が重なり合う「のん」ならではの声によって昇華され、確かなアイデンティティとなって、わたしたちの胸に届く。だからこそ、戦時下の日常が、慈しむように描写されるアニメの筆致が活きるのだ。

「のん」の声には、ひとりひとりの観客に語りかける「心の共通語」がある。

そこで語られているのは方言なのだが、スクリーンの向こう側に存在するキャラクターではなく、わたしたちのすぐそばにいる誰かの声として聞こえる。

おそらく音声がそのように録音されてもいるのだろうが(本作は、映像と声優の声の距離感が独特だ)、それ以上に、「のん」の発声それ自体が、慎ましいサインに満ちている。

ひとが日常を大切にするとき、生まれる声。暮らしというものに対してひたむきになるとき、もたらされる響き。映画が始まってすぐに、わたしたちはそのことを直感する。

本能のレベルで、知る。「のん」の声は、この映画の環境をかたちづくっている。

後半では、思いがけない悲劇が、すずの身に襲来する。すずは、それまでのようにマイペースではいられなくなる。その傷を、その心象を、「のん」がどのように演じているか。その瞬間瞬間を体感するために、『この世界の片隅に』はいまここにあると言って過言ではない。

思い出しても涙がこぼれそうになるが、「のん」は一貫して、目の前にあることを肯定することに、心をくだきながら表現している。よろこびばかりではなく、かなしみも肯定する。それはあるのだと、肯定する。その途方もなく、平常心の強さに、わたしたちは確かに救われる。

そして、この肯定の力こそが、アニメ/実写のカテゴライズを超越する。必見、にして、必聴。