TOTO会長 張本邦雄

写真拡大

■「流通」と「販売」で守旧派をはね返す

1998年4月、営業本部の営業主幹として、新しい流通体制を築くため、特約代理店と議論を進めていると、異動が発令された。次は、改修時の水回り設備を扱うリモデル企画部長だ、という。

前々から、異動の話は流れていた。冗談ではない。バブルがはじけ、デフレ色が濃くなるなか、危機感を共有した特約店と、重要な見直し作業に取り組んでいた。担当役員に「部長になど、しないで下さい。主幹というのが、改革に当たってフットワークが軽くて、いい立場なのです」と要請した。だが、ある日、役員は「ごめん、やはり、あなたがリモデル企画部長だ」と告げ、「何もしないでいいから、なってくれ」と言った。

組織人である以上、出世したいかしたくないかと言えば、それはしたいのが本音。でも、いま手がけている作業は、TOTOのためでもあるが、全国の800を超える特約店の存続のためにも、急ぐべきことだ。そう、確信していたし、人間には譲ってはいけないことがある。だから、役員の言葉通り、肩書が変わっても、流通改革の作業を続けた。47歳のときだ。

TOTOが、国内で大きな売上高と利益を確保できた基点は、販売網の強さにある。特約店の先には、工務店や水道工事店などが広がる。その販売網は、「ウォシュレット」などの衛生機器やタイル、洗面化粧台など、商品別の特約店制度になっていた。右肩上がりの時代は、それでパイが分け合えた。だが、バブルがはじけ、パイが縮小した。販売網も、生き残るには、単一商品を扱うだけとはいかない。当然、新しいお客を開拓した。そのなかで、商品別の流通は壊れ始める。そのとき、流通改革を本気で考え始めた。

商品別の特約店制度は、新分野の商品が出るたびに追加されたから、それぞれに整合性はない。詳細は省くが、保証積立金や支払い条件など、照らし合わせると、矛盾点もあった。それに、もはや商品別に分けず、総合的に扱う流通体制でないと、無理だった。

契約を、次々に見直していく。合併や廃業もあり、新たな契約書に替えたのは200数十社。むしろ特約店のほうが必死で、販路を広げ、生き残るための流通体制に変えようとする店主たちと、きちんと組めた。正しいと思う原則は、簡単には変えず、貫こうという思いは同じ。手応えは、強かった。

99年4月、営業企画部長に昇格した。流通改革を仕上げ、今度は自社の営業改革に着手する。長い間、担当者は特約店を回るだけの「流通営業」だったが、水道工事店などとも接触して市場のニーズをつかむ「接点営業」に変える。どの商品がいくつ必要かを聞いて回る「御用聞き営業」ではなく、お客の課題に最善の解を示す「ソリューション営業」を進める。個々人の力に頼る「属人営業」にとどまらず、「組織営業」を展開する。販売改革に掲げた三本柱だ。

苦労したのは、社内の守旧勢力だ。改革案は黙って聞いても、会議で社長がひと言でも疑問を口にすると、後ろから一斉に機関銃を撃ってきた。ここでも、自分たちがやってきたことの否定に、抵抗した。ただ、役員の何人かが裏で支えてくれ、志を同じくする同僚も引き下がらない。その二つの存在があったから、貫徹できた。

もう一点、子どものころからの数学的思考法が、武器となる。何かを議論して決める際、論理が立たず、数字の裏付けがない進め方は、受け入れない。それが正しいかどうかは別にして、論理的で定量化されていないと動けない性質で、流通改革でも販売改革でも、常に論理をつくって定量的に説いた。相手は反論しづらく、不愉快だったようだ。そういう意味では「かわいくないヤツだったが、論理は最後まで曲げない。

「枉己者未有能直人者」(己を枉ぐる者にして、未だ能く人を直くする者は有らず)――自分が持つ論理を曲げて相手に合わせてしまう人に、立派な指導者はいないとの意味で、中国の古典『孟子』にある言葉だ。いかに栄達の早道が消えるとしても、経営陣や上司に迎合せず、流通と販売の二つの改革で正しいと思う論理を貫いた張本流は、この戒めと重なる。

■先輩の背中で学ぶ「ノー」も言う営業

1951年3月、東京・両国で生まれる。父は鉄工所を経営し、祖父母と母、妹の6人家族。小学3年のとき、父が親戚の早大生を家庭教師に付け、彼が出た麻布中学を受験する。家業は真っ黒になって働く仕事で、父には「継がなくていい。サラリーマンになれ」と言われた。麻布高校を卒業する年、大学紛争で東大受験がなくなり、早稲田大学商学部へ進む。

73年4月、東陶機器(現TOTO)に入社。東京・虎ノ門にあった東京支社で、洗面化粧台などを建設会社やマンション施工主に売り込む販売2課に配属された。以来、一貫して営業畑を歩む。

入社した年、第一次石油危機が起き、資材の不足や高騰で生産が追いつかず、売る商品がなくなる。逆に「受注いただいた商品が、納入できなくなりました」と謝って歩く日々が、半年も続く。

そんな状況下でも、先輩たちはお客と親しく付き合っている。何を話せばそうできるのか、誰も教えてくれない。「背中をみて覚えろ」の時代だった。衝撃だったのは、先輩が取引先の値引き要求に「そんなことはできません」と断っていた姿だ。コストと品質のよさを説明し、堂々と「これだけいいものをつくっているので、値引きは無理」と言い切る。これも、「枉己者」になることへの拒絶。営業の真髄をみた気がした。

東京支社では、千葉営業所員と柏営業所長も経験した。取引先は小さくなっても、「現場」がよくみえた。そこから営業本部へ転じて、40代で流通と販売の二つの改革に携わる。「リモデル事業」の大展開は、これらの改革があったから成功した。

ただ、改革は、終わった瞬間から、次が待つ。ひと息ついてはいけないのが、経営の要諦だ。だから、常務執行役員で販売推進グループ長だった2005年、「ソリューション塾」を開設する。全国の営業拠点から、20代後半から30代前半の100人を塾生に選び、3グループに分けて半年間、毎月1回ずつ東富士の研修所に集めた。そのすべてにいった。講師は自分だけ。大半は塾生同士で議論させ、最後に締めの話をした。販売改革で三本柱に掲げた営業のやり方が、やはり話の核となる。

09年4月、社長に就任。第一声は「全社一丸」だ。すぐに、全国の現場巡りに入る。営業拠点よりも、23ある製造拠点を優先した。製造ラインの稼働状況をみて景況感をつかみ、懇親会で盃を交わして「現場」の本音を聴く。リーマンショックの翌年、まだ厳しい時期だっただけに、気持ちのベクトル合わせにも、心を砕く。

時代は大きく変化し、情報通信技術の進歩で、仕事の仕方も変わっていく。でも、「人と人の関係がつくる営業」や「ノーも言う営業」は、変わっていない。そんなことで変えてしまっては、「枉己者」になってしまう。だから、会長になってからも、社長が海外展開やM&Aで多忙なら、いつでも現場巡りを引き受ける。何と言っても、志を同じくする若者に出会うのが、うれしいからだ。

----------

TOTO会長 張本邦雄(はりもと・くにお)
1951年、東京都生まれ。73年早稲田大学商学部卒業、東陶機器(現TOTO)入社。98年リモデル企画部長、2002年マーケティング統括本部長、03年取締役、05年常務、06年専務、09年社長。14年より現職。

----------

(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)