11月シリーズでは、日本代表に復帰した小林。さらなる飛躍を遂げられるか。写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)

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 祐希世代が18歳を迎えた2010年、東京Vユースは快進撃を見せた。夏にはクラブユース選手権を制し(祐希はMVP)、さらには慶応大、横河武蔵野など大学や社会人の強豪を倒して、天皇杯の東京都代表の座を勝ち取るのだった。
 
「手のつけられない活躍でしたね。グラウンド中を走り回り、ドリブル、フィニッシュ、FKと、勝利に直結するパフォーマンスを見せ続けていました。とにかく練習でも真っ先にグラウンドに現われ、最後まで残ってボールを蹴っていた。そんな祐希の姿を見て、中島翔哉(現FC東京)も同じことをしていたんです」(中村忠・現FC東京コーチ兼U-23監督)
 
「もうユースでのゲームを見る限り、 同じ年代でやるべきことはすべてできてしまっていた。早くトップに触れさせないと成長速度が落ちてしまう。クラブとしても、そう判断して 参加させていました」(冨樫剛一・現東京V監督)
 
 こうして順調にトップ昇格を果たした祐希は、その1年後には10番を背負いキャプテンマークを巻くことになる。
 しかし、それは冨樫にとっても寝耳に水の出来事だった。
「10 番はともかく、キャプテンには本当にビックリでした。川勝良一監督から聞いた時は、エッと絶句しましたよ」
 
 冨樫は、川勝に聞き返した。 「で、祐希、どうでした?」「喜んでいたよ」――それは思い切り過ぎだろう。もう少し相談をしてくれよ――。
 
 冨樫は、そんな心の声をグッと呑み込んだ。
「祐希は非常に責任感の強い子です。でもまだチームを牽引し、動かしていく人としての膨らみは足りていなかった。難しい人間関係もあり、気がつけば喜怒哀楽がすっかり少なくなっていました。コーチとして何かできることはないか、どうしたら若いキャプテンを盛り立てていけるのか、いろいろ考えたんですけどね」
 
 結局、東京Vの新しい顔として飛躍するはずだった19歳のキャプテンは、その夏磐田へレンタル移籍する。
 
 ずっとこだわり続けた背番号は、一気に5倍(10→50)に増えた。
 しかもさらに逆風は強まる。クラブはJ2に降格し、翌年完全移籍に切り替えた祐希は、シーズンを通してわずか1試合しかリーグ戦のピッチに立てなかった。
 
 祐希は2度目の大きな試練に直面していた。しかし、監督として古巣の磐田に戻って来た同じレフティの名波浩が、どん底から救い上げた。プロ昇格以降は一貫してボランチとしてプレーをしてきた祐希をトップ下に引き上げ、レギュラーとして使い続けるのだ。
 
 改めて冨樫が振り返る。
「東京V時代にボランチとして起用したのは、河野広貴(現FC東京)との共存も含めたチーム事情です。攻守に携わることで、もう一歩先に、という思いもありました。でも一方で、トップ下こそが適性で、どこかのタイミングで戻そうとも考えていました」
 
 数年前から海外移籍を視野に入れていた祐希は、自腹で英語の家庭教師を雇い、会話に磨きをかけてきた。目標を掲げ、そこから逆算して脇目も振らずに行動を起こす。それを丹念に積み重ねて、ようやく目標から5年遅れで日の丸をつけた。
 
 冨樫の口調は、確信に満ちていた。
「途中で横道に逸れ、曲がりくねった道を歩む者もいれば、タイミング悪くよそ見をしてしまう者もいます。そんななかで、祐希はすべてをサッカーに懸けて、ブレずに信じた道を縦に突き進んで来た。それが一番(の成功の要因)です」
 
 大きな夢が、依然としてはるか彼方にある。しかし少しずつだが、着実に近づいている。 (文中敬称略)
 
取材・文:加部究(スポーツライター)
 
◆プロフィール
小林祐希(こばやし・ゆうき)/1992年4月24日生まれ、東京都出身。182センチ・72キロ。JACPA東京FC̶―東京ヴェルディJrユース―東京Vユース―東京V―磐田―ヘーレンフェーン(HOL)。エーデルディビジ通算1試合・0得点、J1通算36試合・5得点、J2通算138試合・14得点。独自の発想力と技術を併せ持つ天才レフティ。目標とするロシア・ワールドカップ出場のため、今夏オランダの名門ヘーレンフェ ーンに新天地を求めた。今年6月に日本代表デビューを飾ったばかりだが、闘争心剥き出しで定位置奪取を狙う。