中学・高校時代は東京Vで技を磨いた。現東京V監督の富樫氏は、喜怒哀楽の激しい少年だったと振り返る。(C) SOCCER DIGEST

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 世界大会のメンバーから外れた祐希は、1歳上のチームとともにブラジル遠征に参加している。再び冨樫剛一(現東京V監督)の証言である。
 
「10 番を奪うのは、丸山浩司監督、 中村(忠/現FC東京コーチ兼U-23監督)コーチと3人でしっかり話し合って出した結論でした。この頃の祐希は、険しい山道で必死に歩を進める。そんな状態だったと思います。サッカーに限らずストレスを抱え、何度か爆発した。僕が首根っこを掴まえてピッチの外へ放り出したこともあります。でもそんなことがあると、夜には決まって携帯電話に連絡を入れてくる。ちょっとこういうことで悩んでいて……、ここが上手くいかなくて……、と謝罪をしてきました。そこでいろんな話をして翌日は何食わぬ顔で練習をする。そういう時期だったので、各指導者間ではなるべく祐希の情報を共有し、何かあったらどう対処するか話し合うようにはしていました。クラブにとって重要度の高い選手だという認識は、揺るぎませんでしたからね」
 
 危うい時期にはSBなど、いくつかのポジションに挑戦させている。
 
「SBはアウトサイドの重要性を認識させ、受け手の景色も見ておいてほしかったんです。外からゲームを組み立てたり、3人目の動きをして受けさせたり……、そんな狙いがありました。もちろん最初にSBをやらせようとした時は、メチャクチャ不満そうな顔をしてきました。だからしっかりと狙いは説明するようにしましたね」(冨樫)
 
 雌伏の1年間を経て、祐希は徐々に元気を取り戻していく。3年時に夏のU-15クラブユース選手権(福島Jヴィレッジ)で、SBでプレーをする祐希を見る機会があった。
 
 すでにグループリーグ突破を決めて勝敗に神経質になる必要のない試合だったが、試合後に「SBはないよな」と声をかけると「サイドから組み立てているんです」と満面の笑みを見せた。だが歴代でも最強と目された東京Vは、それぞれクラブユース選手権では京都、全日本ユース(U-15)ではG大阪に、決勝で競り負けて優勝を逃している。特に国立で行なわれた全日本ユース決勝は、祐希自身は鮮やかなゴールを決めたが、すでにユースに昇格していた宇佐美貴史(現アウクスブルク)抜きのG大阪に逆転を許しただけに、まさかの敗戦で涙に暮れた。
 
 だが元日本代表選手らしく、中村は育成年代の選手たちに伝えている。
「結局サッカー選手は、フル代表に入った者勝ちです。それまでの過程では“今はただ思い出作りをしているだけだよ”と話しています。もちろんその時、本人は悔しいでしょう。 でも、僕らは足りないところを指導し続けるだけですからね」
 その後、祐希は短期間で受験勉強に集中し、都立高校に合格する。ところが高校側は、頑なに学業最優先の姿勢を崩さない。中学3年時以降は、年代別日本代表の合宿などが増えてきていたが「あくまで日程通りに試験を受けなければ落第」と、まったく融通のつけ入る隙がなかった。
 
 入学して、わずか1か月後、祐希から拓也に連絡が入った。
「やっぱり学園生活は、もう諦めるわ。とても無理だ」「だったら制服を作る前に言えよ」 「オレだって少しくらいは学園生活を送ってみたかったんだよ……」
 
 これで退路は断たれた。通信制高校に転入した祐希は、完全にプロの道を邁進することになる。冨樫が記憶の糸を手繰り寄せる
 
 「ウチには祐希と同じように通信制に切り替えた選手が何人かいたので、午前中は各コーチが交替で授業をしました。僕は映画を見せて感想文を書かせたり、ディスカッションをさせたりしていたんですが、映画鑑賞中にシーンとした部屋でシクシク泣き声が聞こえてくる。見れば祐希でした。でもどこで教わったわけでもないのに、感想文を書かせても面白かったし、ディスカッションでも言葉の組み立てなどに、とてもセンスを感じました。本当に喜怒哀楽がはっきりと表われる少年でした」

取材・文:加部 究(スポーツライター)