東京大学大学院経済学研究科の矢坂雅充准教授

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日本の生乳流通制度はいま、大きな曲がり角に立っている。今秋、政府の規制改革推進会議は「指定生乳生産者団体(指定団体)制度の抜本的見直し」「生乳流通の"自由化"」に関する検討をスタートさせたのだ。

牛乳や乳製品の原料となる生乳は傷みやすく、速やかに乳業メーカーの工場に運んで加工しなければならない。乳用牛の世話に追われる酪農家にその余裕はなく、個々で移送できたとしても効率が悪く、価格交渉で足元を見られるのは自明だ。そこで指定団体が個々の酪農家の生乳を集め、複数の乳業メーカーに安定的に販売している。全国10の地域ごとに指定団体が置かれ、生乳販売代金と国からの補給金をプールして、出荷量や質に応じた金額を酪農家に支払っている。

そもそも指定団体は、立場の弱い酪農家が乳業メーカーと対等に交渉できるようにと、1966年に国によって設立された。組織化され、多くの生乳を扱うことによって、(1)生乳流通の合理化によるコスト削減、(2)乳業メーカーとの取引交渉力の強化、(3)生乳の需給ギャップの調整が広域的に図られるようになった。日本の酪農業のセーフティーネットの役割を果たしてきたともいえる指定団体制度が、なぜ危機にさらされなければならないのか――。

10月31日、東京大学大学院経済学研究科の矢坂雅充准教授に話を聞いた。

当初は、バター不足をめぐる議論でスタートしたはずなのに...

――規制改革会議が指定団体制度の抜本的見直しを唱えるに至った経緯を教えてください。

「指定団体は、独占組織ではありません。指定団体と取引している酪農家(インサイダー)もいれば、そうでない酪農家(アウトサイダー)もいます」
「生乳は用途に応じて価格が異なります。基本的には、鮮度を重視する牛乳、ヨーグルト、生クリーム向けが高くて、バターや脱脂粉乳、チーズの原料になる加工向けは安い。普通、酪農家は乳価の高い用途に生乳を売りたいと思うでしょう。その価格差を埋め、指定団体を通じて安定的に加工向けの生乳を供給してもらうため、国は加工向け生乳に対して補給金を出しています。だから、補給金は指定団体を通して酪農家に支払われます」
「もともとは、社会問題化したバター不足の原因を探るために酪農の制度改革に関して議論が平成27年にスタートしましたが、制度とバター不足の関係性は見出せず、今や、"加工原料乳生産者補給金をアウトサイダーにも支払うべき""生乳の全量無条件委託の原則を止め、生乳部分委託を広く認めるべき"といったような指定団体制度の見直しについて議論の焦点が移っています。」

――補給金がアウトサイダーに直接交付されるのは、好ましいように感じますが。

「1966年以前、乳価をめぐる取引は不透明で全国で紛争が起きていました。酪農家の立場を強化するため指定団体は生まれたのですが、国からの指示だけで組織として簡単にまとまるものではありません。補給金は指定団体の組織化のいわば呼び水として設定された面があります。国は補給金が支払われる上限の数量を設けており、補給金の交付は生乳の需給調整と関わっています。たんなる所得補償のための直接払いではありません」
「生乳は妊娠・出産した牛が生産するものなので、たやすく調整できるものではありません。日持ちがしないためすぐに処理せねばならず、鮮度の求められる牛乳などに優先的に処理し、補給金で牛乳など鮮度が求められる用途との価格差を埋めながら、脱脂粉乳やバターのように日持ちする乳製品の製造量を調整することにより、需給のバランスをとる必要があるからです。昭和50年代に生乳が過剰となってからは、指定団体がその機能を担うようになりました」

――集送乳や補給金の分配だけでなく、生乳の需給調整も指定団体は行っているのですか。

「生乳需給のアンバランスが生じたとき、指定団体は多様な手法で調整を図っています。しかし需給調整は皆でルールを守らないと意味がなく、『抜け駆け』する者がいると空中分解してしまいます。生乳はこれまで不足と過剰を繰り返しています。量的な調整によって乳価を安定させるには、インサイダー比率を高める(=指定団体を通じて出荷する農家の戸数を増やし、取り扱う生乳量を増やす)しかありません。いったんアウトサイダーになったもののインサイダーに戻るケースもあって、現在の指定団体加入率は約96%に達しています」

――日本の農政は農家に手厚い政策をとっているイメージがありますが、生乳の需給調整は政府が行っているわけではないのですね。

「政府は乳製品の価格低落時の過剰乳製品の市場買入・隔離を中止し、さらに過剰在庫への金利・保管経費補助制度も廃止してしまいました。先進国の中で、これほど生乳や牛乳・乳製品市場に政府がタッチしていないのは日本くらいかもしれませんね」
「今の日本では指定団体が安定的な生乳市場を確保するために重要な役割を果たしています。乳業メーカーもその恩恵を受けています。個々の酪農家とやり取りする手間が省け、安定的に原料(生乳)も手に入りますから。ところがインサイダー比率が96%という数字だけを見て、政府は『独占』だと非難しているのです」
「アメリカやカナダでは、酪農に対する強力な保護政策が維持されています。酪農は、牛という生き物を扱う繊細な産業で、一度壊れたら回復するのが大変ですから。自由化を進めてきたEUでさえ、国際乳製品価格が暴落したここ数年、政府が介入せざるを得ない事態に陥っています」

――生乳の部分委託を広く認めるとはどのようなことでしょうか?

「これまでお話してきたように、日持ちしないなどの生乳の特性を考えると、指定団体制度にもとづく需給調整の仕組みを崩していくのは無謀です。生乳の需給調整が有効に機能するのは、インサイダーの酪農家が、原則、搾った生乳の全量について、あれこれ条件を付けずに指定団体に販売を委託するからです」
「もちろん、自分の生乳を使用して乳製品の自家製造や、有機酪農の生乳など『特色ある生乳』取引として乳業者と合意した場合には、個別の取引も可能です。ただし、指定団体は乳業者と年間の販売計画を作っていますので、酪農家も指定団体と相談しながら年間や月毎の製造販売計画が必要です。これを『制度の弾力化=部分委託』として運用しており、例えば自家製造は1日あたり3トンが上限とされています。乳牛1頭あたりが1日に生産する生乳は約30kgですから、これはおよそ乳牛100頭分に相当します」
「現行制度でも相当の『部分委託』が出来ます。ところが、規制改革推進会議はそもそも『全量委託』の考えを否定しようとしているのです。つまり、酪農家が生乳を基本的に独自に販売し、自分で売れない残りを指定団体に販売委託するということです」
「『コメや青果物と同様、生産者の販路の自由度を広げる』というのが規制改革推進会議の主張のようですが、これは先ほどお話した『生乳の特性』を理解しているとは思えません」

――部分委託を広く認めると、何が起こるのでしょうか?

「酪農家の直接販売は、生乳需給が不足基調のもとでは比較的順調に行なわれると思われますが、学校給食が休止する年末年始などの時期には、一時的に牛乳の需要が減り、生乳需給は過剰になります。また、生乳需給は、日持ちのしない牛乳・生クリームなどの用途が7割近くになっており、生乳生産や牛乳消費、乳製品輸入などのわずかな変化によって、過剰へと転じる可能性は高いのです」
「生乳が過剰の場合の処理を牛乳の安売りに依存しているアウトサイダーにとって、自ら販売し切れない生乳を指定団体に委託できれば、アウトサイダー自身だけで生乳を販売するよりリスクは大きく軽減されます。これは、インサイダーの酪農家であっても同様なことが言え、売れる分の生乳だけ乳価が高い飲用向けの独自販売を目指す酪農家が増えることにより、指定団体には需給逼迫期には生乳が集まらなくなり、過剰期には駆け込み寺に殺到するように生乳が集まってくると思われます」
「そうなると、需給調整とは無縁の無秩序な、酪農家同士・指定団体間同士の競争が激しくなり、結果として全体の乳価が大幅に下落することは自明です」

いち早く自由化に踏み切った英国では何が起きているか

――日本のミルク・サプライチェーンは現在、どのような状況に置かれていますか。

「一般的に、市場では売り手よりも買い手が強いのが常識です。これはどの業界でも変わりません。さらに海外と比べてスーパーなど日本の小売業は強くなく、むしろ弱い。過当競争に陥っている。スーパーのチラシを見ると、牛乳は安売りの目玉の一つになっていますよね。そのツケは、乳業メーカーそして酪農家へと回ることになります」
「日本の酪農をどうすべきか、生乳流通全体を巻き込んだ改革が議論されるべきなのに、政府の考えは『生産者組織の尻を叩けばなんとかなるだろう』ということ。改革後の生乳市場の変化をシミュレーションしていないのです」

――今、日本で議論されているのと同様な生乳流通の自由化をした国はありますか。そこではどんな事態になっているのですか。

「英国にはかつて、生乳を一元的に集荷・販売し、さらに乳製品加工や営農指導、研究開発を担っていたMMB(ミルク・マーケティング・ボード)がありました。自国の生乳を100%集荷・販売しており、日本の指定団体よりも強力な組織だったのですが、1994年に制度が廃止され、MMBは解体されました」
「その結果なにが起きたのかというと、乳価の下落や大幅な変動の影響を受けて多くの酪農家が廃業し、最終的に量販店が生乳市場のイニシアティブを持つようになりました。『できれば昔の制度に戻りたい』『量販店の影響力が強すぎる』という声を、先日、現地の酪農家や乳業関係者の声を私は直接聞きました」
「日本の酪農家よりも英国の方が自給飼料の生産環境に恵まれるなど、生産基盤が強固なこともあり、今はまだある程度踏みとどまっている状態です。英国のような自由化が日本で行われたら、酪農家はバタバタと倒れてしまうかもしれません」

――生活者に牛乳・乳製品が安定供給されるため大切なことはなんでしょうか。

「現在の指定団体制度を維持した上で、組織の合理化をさらに進めることが重要です。その上で、多様な酪農経営をサポート出来る柔軟性も大切だと思います。酪農は生乳を搾る産業ですが、同時に乳牛を育てる、飼料を生産するなど、様々な要素を含んでいる農業です。牛の飼い方や経営方針など、周辺環境や経営主の判断により、一つとして同じ経営はありません。日本の酪農産業の持続発展を政策として担保しながら、個々の酪農経営の『良いところ』をより伸ばしていけるよう、きめ細かな支援も必要とされていると感じます」
「後継者の確保も大きな課題です。酪農は第二次世界大戦後に発展した日本では比較的新しい農業であり、他の作目に比べれば従事者の平均年齢も高くありませんが、きわめて多額の大きな設備投資を必要とするため新規参入者のハードルは高くなっています。若い人が失敗を恐れずに酪農に挑戦できる仕組み、失敗を最小限に抑えるための技術・経営指導が必要です。ミルク・サプライチェーン全体で新規参入者を支援するファンドみたいなものを作れたらいいのですが」
「日本の生乳生産費で半分近くを占めているのは飼料代で、大半は輸入に頼っていますが、輸入飼料価格は高止まりが続いています。国際相場は乱高下するので先が読めず、酪農家が設備投資をしたくてもしづらい状態になっています」
「一方で、よく知られているように耕作放棄地が年々拡大しています。イタリアやスイスのようにかなり急峻な農地で飼料を栽培しているところもあり、自給飼料を増やすことで、農地を有効利用して保全し、国際相場の影響も受けにくくすることができます。工夫できる余地はまだまだあると考えます」
「現在の指定団体制度があることで乳価は乱高下せず、酪農家にとっては収入計画の見通しを立てやすい状況にあると言えます。それは最終的には、消費者が購入する牛乳や乳製品の安定購入・安定価格につながっているものです。政府が検討する『生乳流通自由化』を行った場合、今のように需給が逼迫しているときは突然乳価が下がることは考えにくいですが、次第に乳価が高い牛乳市場への競争が激化し、需要を超えて余った生乳の買い叩きなどにより市場が混乱していく懸念があります。そして、ひとたび需給が緩和した際にはさらに生乳が買い叩かれる恐れがあります。需給が逼迫しているときこそ、冷静に過剰を処理する仕組みを考えておくべきでしょう。乳価の下落により酪農家が疲弊し離農が加速し、生乳の安定供給ができない状態になってから制度を復活させようとしても、もはや手遅れです。国産の牛乳すら飲めなくなるかもしれません。生乳の特性を踏まえると、指定団体制度を『壊す』ことによる、生産者・消費者のメリットがあるとは思えません」