By Mike Mozart

いまや世界中に店舗を展開し、ハンバーガーやポテト、さらには現地流にローカライズしたメニューまでをも提供している「マクドナルド」にも、もちろんながら設立間もないスタートアップの時期がありました。2人のマクドナルド兄弟によって生まれた小さなレストランが、どのようにして他社を引き離すことができたのかがSmithsonian.comでまとめられています。

The Story of How McDonald’s First Got Its Start | History | Smithsonian

http://www.smithsonianmag.com/history/story-how-mcdonalds-first-got-its-start-180960931/?no-ist

マクドナルドの生みの親であるマクドナルド兄弟は、ニューハンプシャー州マンチェスターからカリフォルニアに移住してきた人物です。父親が42年間勤めた会社から簡単に解雇されてしまったのを目の当たりにしたことから、2人はその後の運命を人任せにせず、自分たちでコントロールするための方法を考えるようになったといいます。まず、兄のモーリス"マック"がカリフォルニアに移り、その後に弟のリチャード"ディック"が兄を追って1926年にカリフォルニアに移住しました。新天地でビジネスを始めることになった2人が当初描いていた構想は、当時人気を集めていた映画ビジネスに携わり、成功を収めて50歳になるまでにひと財産を築き上げるというものだったそうです。

2人は映画制作の仕事に就くことになりましたが、得られた職はいずれもマイナーな職種ばかりで、収入もとても満足できるものではなかったとのこと。目的を達成できなさそうなことに気づいた2人は、同じ「映画関連」のビジネスの中でも、映画を作る側から、劇場を経営して「見せる側」へと路線を変更することになります。2人は、ロサンゼルスから約30km離れた「グレンドラ」という地域にある映画館を買収し、ニュース映画と2本立て映画の上映を始めました。そしてこの時、観客が食べ物を持ち込むことを防ぐために、劇場ロビーにスナックバーを設けたことが、その後の兄弟の流れを形づくる特徴的な出来事だったといえます。

このようにして映画館ビジネスに参入した2人でしたが、順調かに見えた映画館ビジネスも実際には経営は楽ではなく、常に資金繰りに奔走するような状況だった模様。ついに映画館買収から7年後の1937年、マクドナルド兄弟は映画館を売却して、エンターテインメント業界からフードビジネスへと舵を切ることになりました。

兄弟は、かつてアメリカを東西に横断していた「ルート66(国道66号線)」のロードサイドにフードスタンドを出店。近くには「アメリカで最もフレンドリーな空港」と称されるFoothill Flying Field(フットヒル飛行場)が位置するというロケーションで、映画の撮影に適した土地柄から、映画スターが撮影に訪れることも多い場所でした。兄弟が出した店は、「スターや旅行者の喉の渇きを潤す」というニーズにぴったりとはまって大成功し、ニューハンプシャーに住んでいた両親をカリフォルニアに呼び寄せることができたほど。



当初、マクドナルド兄弟が考えていたのは全てのメニューを「1ダイム (10セント:36円・1940年代の価格)」で提供する「Dimer」と呼ばれるタイプのレストランだったとのことですが、不景気の影響で断念。当時の人々は不景気の影響で仕事が少なくなり、週のうち仕事に出る日が4日以下に減少。暇を持て余した人々が車に乗って出かけ、その結果外食が増えると考えたマクドナルド兄弟は、さらに西にあるサンバーナディーノへと移住してレストラン「McDonald’s Barbeque」を開店させました。当時のレストランの例に倣い、McDonald’s Barbequeも大きな駐車場を備え、「Carhops」とよばれるウェイトレスの女性が、ドライバーに注文を取りに行き、商品を直接届けるというスタイルの店舗運営を行っていました。

その後の1930年代から1940年代の戦争の混乱期を生き延び、マクドナルド兄弟はそれまで人々の心の中にくすぶっていた「楽しみ」への欲望が一気に解放される時代の波に乗る時代を迎えます。ヘンリー・フォードによるライン方式の自動車製造技術が実用化され、1950年代末までにアメリカ国内には4000万台の自動車が走り回ります。多くの車が消費するガソリンから得られる税収により国中に道路網が整備され、モノやヒトが大規模に移動を開始する時代の到来です。そして、このような時代に不可欠なものが、ガソリンスタンド、道路脇に建てられた自動車旅行用の宿泊施設モーテル、そして、旅行者の空腹を満たすレストランの存在です。



By Ethan

アメリカのあちこちで、これらの施設が道路脇に次々に建設されるようになり、かつてはオレンジ畑が広がっていたカリフォルニア州の大地にも道路が引かれてモーテルやレストランが次々と誕生します。レストランには多くの利用客が次々に訪れ、大量の注文を効率よくさばいて商品を提供することが求められます。このような状況に対処するためにマクドナルド兄弟は、アメリカ東海岸の不動産デベロッパーで、「郊外」という概念を生みだしたとされるウィリアム・レヴィット氏の考え方をハンバーガーの生産方式に導入することにしました。レヴィット氏は、フォードが開発した大規模生産方式を家屋の建築に取り入れた人物で、当時の価格で1万ドル(360万円換算)という安価な住宅を提供することによって、都市周辺部に住居が立ち並ぶ「郊外」に住むというライフスタイルを生みだした人物です。

まずマクドナルド兄弟が手を付けたのは、店舗の売れ行き状況を分析して、提供していたメニューを25種類から9種類へと大幅に絞り込み、コストと労力がかかるメニューを排除するというものでした。そしてさらに、料理に使うケチャップとマスタードを必要量だけ自動で吐出するマシンや、シェーキドリンクを一度に5個つくれる機械などを次々に投入して、店舗の効率性を向上させました。

さらにマクドナルド兄弟は業務効率化策を次々と考え出します。当時住んでいた家の裏庭にあるテニスコートをキャンバスにして、チョークで店舗での作業フローを全て書き出して改善策を検討。ここから、110秒でビーフパティを40枚グリルし、1時間あたり900人分のポテトを製造し、注文から20秒で商品を完成させるという、マクドナルドならではのスピーディーな商品提供フローが考案されました。ちなみに、このテニスコートに書いた改善策は、雨が降ったことで全て消えてしまいましたが、なんと兄弟は次の日に同じものを1から再び書き上げたとのこと。



兄弟の改善策には、商品を届ける女性「Carhops」の削減も含まれていました。店舗の利用客は、これまでのようにCarhopsに注文を伝えるのではなく、店舗のカウンターを訪れて店員に直接注文を伝えます。商品が作られる間、利用客はカウンター越しに見える、理路整然とした生産方式を見せられることになるのですが、これもマクドナルド兄弟による戦略の1つ。キッチンには、ピシッとサイズのあった制服に袖を通した男性スタッフが、テキパキと注文をさばくために作業していたそうです。当時の店舗では、スタッフは全て男性で揃えられていたとのことですが、これはマクドナルド兄弟が「女性従業員は不要な問題を引き起こす」と考えていたことが原因だそうです。

このようにして、ハンバーガー製造のシステム化に成功したマクドナルド兄弟には多くの注目が寄せられ、全米からその秘密を教えて欲しいという依頼が殺到します。そんな中、マクドナルド兄弟が出会ったのが、後世に名を残すマクドナルドの成功の立役者、レイ・クロック氏その人です。マクドナルド兄弟の調理システムに魅せられたクロック氏は、交渉の末に1954年にフランチャイズ権を獲得。翌1955年には最初のフランチャイズ店をオープンさせ、その後のマクドナルドの成功劇の第一歩を歩み始めることになりました。

これらのエピソードは、クロック氏による自伝にも詳しく書かれているので、もっと詳細が知りたくなった場合は以下の本を手に入れてみるのも良さげです。

成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝―世界一、億万長者を生んだ男 マクドナルド創業者 PRESIDENT BOOKS | レイ・A. クロック, ロバート アンダーソン, Ray Albert Kroc, Robert Anderson, 野崎 稚恵, 野地 秩嘉, 孫 正義, 柳井 正 |本 | 通販 | Amazon