5日、視界網は、「中国で死んだはずの楊貴妃の墓が、なぜ日本にあるのか」と題する記事を掲載した。写真は馬嵬にある楊貴妃の墓。

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2016年11月5日、視界網は、「中国で死んだはずの楊貴妃の墓が、なぜ日本にあるのか」と題する記事を掲載した。

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楊貴妃といえば、日本では世界三大美女、中国では古代四大美女として有名な歴史上の人物。唐代の皇妃で、756年6月14日に中国で亡くなったとされている。しかし、その死には疑惑が存在する。記事は、「馬嵬(陝西省咸陽市興平県)にも楊貴妃の墓があるが、なんと日本(山口県の二尊院)にも同じく楊貴妃の墓がある。これはどういうことなのか?」と疑問を提起している。

その上で、記事は日本に伝わる伝説を紹介する。安史の乱の兵士らから原因となった楊貴妃殺害を求められた玄宗帝は、かばいきれずに楊貴妃を縊死(首つり)させたとされている。しかし、時が経ち楊貴妃の改葬が行われた際には遺体の判別がつかず、お香の入った袋だけが残っていたことから、「侍女が替え玉となったのではないか」あるいは「蘇生したのではないか」といううわさが流れた。本人は日本に逃れたものの、ほどなく病によりこの世を去ったというのだ。

記事は、こうした説が浮上した理由について、楊貴妃が非常に慕われる性格であったこと、玄宗帝と軍の間を取り持っていたのが楊貴妃の前夫である寿王李瑁で手助けした可能性が十分にあること、楊貴妃を縊死させたとされる高力士との関係も非常に良かったこと、の3つがあると指摘。

さらに、「(楊貴妃殺害を求めた)陳玄礼らがその死を確認した」とされていることについて、中国でも「陳玄礼が皇妃の殺害を迫るという不敬に兜を脱いで許しを請うた」とされていることから、遺体を確認するというそれ以上の不敬には及ばなかったのではないかとみている。人間に首をつらせること自体容易ではなく、専門家もいなかったことから、内侍が意図したか否かにかかわらず気絶するにとどめ、人々が去った後に蘇生した可能性に言及する。

記事は、「もちろんこれは単なる一説にすぎず、中国と日本の記録は異なる部分もある」としながら、「何が正しいかはわれわれには判断しようがない。こうした物語は、文学芸術に発展の余地を与え、世の人々に無限の希望と幻想をもたらしてくれる」としている。(翻訳・編集/北田)