■極私的! 月報・青学陸上部 第15回
◆全日本大学駅伝プレビュー後編

 富津合宿、最終日、全日本大学駅伝を走る選手たちは16kmのビルドアップ走(※)をこなしていた。全員が予定タイムをクリアし、そのままフィニッシュ。すぐに脈を1分間ほど計り、ゼリー飲料を飲み干す。
※ゆっくりしたペースで入り、徐々にスピードを上げていくトレーニング法

 中村祐紀が「はぁはぁ」と息をついていると、一色恭志が「こんなんでキツかったら大変だぞ」と一言。中村は「きついなんて言ってないっすよ」と笑顔で返した。

 いつも一緒に飯を食べるぐらいの仲がいいふたり。全日本を走るメンバーは非常に雰囲気がよく、調子がいい。その中で故障から復活し、表舞台に帰ってきたのが中村だ。

「ようやく調子が上がってきました」

 そう語る表情は明るい。中村がその名前を全国区にしたのは昨年だった。2年生ながら出雲駅伝2区を走って区間4位、箱根駅伝では9区に抜擢された。同じ2年生で箱根を走った下田裕太、田村和希とともに「青学三羽烏」となり、青学のエース候補になった。

 ところが今年は4月の世田谷記録会(5000m)で13分52秒29を出したものの、それ以降ペースが上がらなかった。2連覇がかかった全日本学生個人選手権も12位に終わった。この時、中村は苦渋の表情を浮かべていた。

「4レースぐらい連続で結果が出ないのは初めてのことなので、自分の中で消化しづらい部分があります。原因は......足の痛みとかじゃなく、体が急に固まってしまうんです。肩周りとかほぐしてもらっても走っている途中に固まってきてしまう。針打ったり、いろんな調整をしているんですが調子が上がらない。今は我慢して、夏合宿からしっかり練習をやって調整していくしかないですね」

 簡単に14分を切れなくなり、スピードが上がらない。体が硬くなり、思うように練習ができないので、あとは夏合宿で取り戻すしかなかったのだ。ところがそんな中村のプランを打ち砕く事件が起きた。7月9日、世田谷記録会が終わった後の練習中、大腿部を痛めて戦線離脱したのである。

「骨折ではなかったんですが、筋肉をだいぶ痛めてしまって走れない状況でした。夏季1次合宿は何もできない状態だったので、給水や食事の手伝いとかを1年生と一緒にやっていました。みんな、順調に練習を消化しているのを見ているとつらかったですけど、走ってないのだから、遅れていくという焦りはなかったです。

 走り出したらすぐに下や中間層のレベルには追いつけるし、いつでも抜いてやるよっていう感じでいました。ただ、現実はその時点で走れていないので、選抜の2次合宿には行けないだろうし、出雲も厳しいなと思っていました」

 中村はチャレンジ組の合宿に入り、調整を続けた。合宿後半には30kmを普通に走れるようになり、みんなと同じ練習メニューを消化できるようになった。復帰まで約2カ月かかったが、故障はそれまでの自分のやり方を見つめ直すいい機会になったようだ。

「昨年までは用事があると、ケアよりもそっちを優先させていたんですが、今年になってからはストレッチとかケアに時間を当てて、自分の体を管理するようになりました。ただ、それでも夏前に故障したので......。だから、まだストレッチやケアが足りないのかなと思い、さらに練習前後のケアに時間をかけているし、食生活にも気を配るようになりました」

 練習に完全復帰した後、見据えていたのは9月中旬にある3次選抜合宿だった。しかし、中村は早く選抜組に合流したい気持ちと、故障明けなので、まだ調整したいという気持ちの狭間で大きく揺れ、決断できずにいた。

 原晋監督は2次合宿を終えた後、3次合宿で若干の選手の入れ替えを示唆していた。調子が上がった選手を3次選抜合宿に合流させたいという考えを持っていたのだ。そこで一番に名前が挙がったのが、中村だった。

「中村が選抜でやらせてくださいと言ってきたら、3次合宿に連れていく」

 原監督は中村に直接そのことを伝えなかったが、門は開かれていたのだ。だが、中村は相模原に残った。

「監督のその話は田村から聞きました。でも、僕の方からは『行きたい』と言えなかったです。2次合宿が終わった後もまだ痛みが残っていましたし、その状態で選抜に行っても練習を離れるリスクが高かった。足を引っ張るぐらいなら選抜に行かず、残って調整して万全の状態にしたいと思ったんです」

 中村の決断は結果的に正しかった。

 妙高高原での3次選抜合宿が終わった後、相模原キャンパスで学内TT(タイムトライアル)が行なわれた。すでに出雲駅伝のエントリーメンバーが発表され、中村はメンバーから漏れていた。悔しさを抱えて走り、タイムは14分を切れなかったが、出雲駅伝組の中に割って入って7位となり、健在ぶりをアピールしたのである。

「くそっ。これでなんで(出雲駅伝の)メンバーに入れないんだよ」

 レースが終わった直後、ひとり言のように発した言葉が印象的だった。やはり出雲を走れないのが相当悔しかったのだ。

「2次合宿に行けなかった時点で出雲は難しいなって思っていたんですが、実際メンバーから落ちると、すごいショックでした。昨年、走っていたので今年もという気持ちが強かったからです。出雲は寮でみんなと応援していたんですが、やっぱりテレビで下田や田村が走っているのを見ていると、『何してるんだろう』っていう気持ちになりましたね。

 しかも、その頃はふたりに置いていかれている感がすごくあったんです。ふたりが強いのは認めざるを得ないんですけど、そんな気持ちでいると、一生負けたままになるんで」

 そう言って中村は苦笑した。

 下田、田村和とは同じ3年生で仲がよいが、ライバルとして負けていると思いたくない。根っからの負けず嫌いなのだ。

 出雲駅伝の翌日、全日本大学駅伝のエントリーリストが発表された。自分の名前があることに一瞬ホッとしたが、すぐに気を引き締めた。エントリーリストに入るだけなら昨年も実現したが、ギリギリのところでメンバーから落選した苦い記憶があるのだ。

「昨年は悔しかったですね。出雲に出て2区4位で走って、タイムもそんなに悪くなかったんです。でも、監督に求められた走りができず、自分ももう少しいけたかなって思っていました。それに長い距離の不安もあって『全日本はまだまだ』という感じで補欠になったんです。

 その後、富津合宿でいい練習ができて、世田谷ハーフマラソンで優勝して、監督から『箱根はおまえを絶対に使うから』って言われました。全日本に出られなかったし、負けたのは悔しいですけど、個人的には全日本の期間にいい練習ができたことが箱根につながっていったと思うんです」

 そう語る表情からは、強い反骨心が垣間見える。実際、中村は下田や田村和にようにスラッとしてスマートな青学生が多い中で、やや異質だ。太く強靭なふくらはぎをはじめ、研ぎ澄まされた肉体を持ち、ギラついた雰囲気を発している。「負けたくない」と闘争心を剥き出しで走る姿は美しく、レースを走るというよりも格闘家のように「戦う」というイメージがフィットする。

 その反動か、気分転換は絵を描くことだという。小学校の卒業文集の将来の目標には「画家」と書いたほどで、今も絵が特技である。

「絵を描いていると逆にストレスたまりそうって言われるけど、落ち着くんです。携帯の画像を見て、マンガとか、わりとタイムリーなものを模写しています」

 最近は『君の名は。』を模写したという。絵がうまいのは優れた才能のひとつ。走ることの才能にも長けているが、中村はランナーとしての自分を「中間層」と評する。

「僕は上位層じゃないです。安定して区間をしっかり任せられるようにならないと上位層とは言えない。みんなにおおっぴらに言うと『えぇ?』って言われるので言わないですけど、現実をわかっていないといけないと思うんです。僕は、自分のことを過小評価も過大評価もしません」

 リアリストだが、自分がどうすべきかは見えている。監督の望む走りを実現し、どの大会でも重要な区間を任される存在になる。それができなければ名前が上位層にあっても意味のないことなのだ。そして、トップランナーになるという野望がある。そのためには今シーズン最初の駅伝となる全日本での快走と結果が重要になる。

「いま、本当にチームのみんなの調子がいいので、僕は走れて"つなぎ区間"だと思います。長い距離は夏合宿の後半からやってきているので不安はないですし、短い区間であれば、前半から突っ込んだレースをしていきたい。いずれにしても任されたところで区間トップを取りたいですね。それを箱根につなげたい。昨年9区を走って力を発揮できなかったので、今年はもう1回9区を走ってリベンジを果たす。それを最大の目標にしてきたので」

 中村にとって全日本は箱根への通加点に過ぎないのかもしれない。しかし、結果を出さなければ箱根が霞む可能性だってある。メンバー争いが激しい今季はちょっと隙を見せると、すぐに取って代わられてしまう、そんなレベルの高い競争の厳しいチームになった。

 それでも目標はひとつだ。

 箱根9区でリベンジを果たすために、全日本では圧巻の走りを見せる。

佐藤 俊●文 text by Sato Shun