仙台はなぜ「牛タンの街」となったのか

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■牛タンの街・仙台には専門店が延べ105軒

右も左も牛タンである。仙台駅に降り立つと、構内では、「牛タン通り」が待ち構え、街を歩けば、牛タンの看板に当たる。

仙台市には、延べ105軒の牛タン専門店があるという。人口比で換算すると、東京の13倍の軒数だ。

いったい、いつから仙台は、牛タンの街になったのか?

さらにもう一つ、謎がある。多くの店があるのに、牛タン定食の構成が、皆同じなのである。

牛タン、テールスープ、麦めし、青菜(せいさい)か白菜漬け、南蛮みそ漬けの組み合わせが、どの店も変わらない。宮城県人が保守的なのか、ほかに変えようがなかったのか。

(1)牛タン焼き/主役。炭火で焼き上げたタンの焦香が胸を打つ。脂の甘さ、色艶、圧倒的な滋味。包丁目も心憎い。(2)テールスープ/準主役。丹念な仕事が生んだ、母親のような優しい味わい。牛タンの凛々しさを最後まで持ち上げる。(3)麦めし/相棒役。牛タンの肉汁を受け止める。その素朴さとアルデンテな食感が、力強いタンと相性抜群。(4)青菜(せいさい)漬け/名脇役。タンの脂を切ったり、寄り添ったり、臨機応変に活躍。白菜浅漬けに替わることも多い。(5)南蛮みそ漬け/個性派脇役。初代の出身地山形県の特産品・唐辛子の漬物である。辛味で食欲を呼び覚ます。

この二つの謎に迫るため、われわれは牛タン焼き発祥の店、「味太助本店」に向かった。創業1948(昭和23)年。お話を伺った現当主・佐野健太郎氏は三代目である。

初代・佐野啓四郎氏は山形出身で、東京にて日本料理の修業後、戦後に仙台で焼き鳥屋を開いた。鶏だけでなく豚も焼いて、店は繁盛したが、後から同じような店が次々とできて、苦労したという。

ある日知り合いの肉屋から、タンが余っているので使ってくれないかと相談され、試しに焼き鳥の台で焼いてみたら、驚くほど旨い。これだ、この味だと、牛タン焼きの店を始める決意を固めたのだという。

しかし牛タン定食は、最初から今の形ではなかった。

初代の郷里・山形特産の漬物である南蛮は、同じ山形のお客さんからの薦めで始めたら、うまくはまった。

テールスープは、初代の奥さんが試行錯誤し、苦心の末に編み出した作品である。

麦飯は、白米が十分に供給されていなかった当時の、苦肉の策であった。ここに白菜漬けを添えたら評判がよく、これもまた定着した。かくして偶然と必然が重なり、牛タン定食という傑作が誕生したのである。

だが味だけでは、仙台は牛タンの街にはならない。数々の要因が重なり、店が増えていく。

1991年の牛肉の輸入自由化で、牛肉の価格が下がり、参入しやすくなったことや、高度な調理技術が必要ないことなどが重なり、1990年頃から急増し、仙台名物として定着したのである。

いま仙台にある牛タン専門店の多くは、「味太助」で修業した職人や従業員、あるいは常連客が始めた店だと聞く。店名に「助」の字がつく店が多いのは、その証拠でもある。

しかし単に牛タンだけなら、ここまで盛り上がらなかっただろう。定食の絶妙な組み合わせが、人々を魅了したからではないだろうか。

まずは牛舌(タン)と牛尾(テール)という、牛の頭と尻尾を定食の中に同居させたというアイデアが、素晴らしい。

牛タンの力強さと凛々しさを、テールスープの優しさが包み込む味わいを知ると、抜け出せなくなる。そこには、牛1頭をいただくような感覚があって、牛タン定食ならぬ牛の「両端定食」と呼びたくなる。

さらに青菜漬けは舌をリフレッシュさせ、南蛮が味覚を引き締め、再び牛タンへの気持ちを盛り上げる。麦飯の香りと適度な硬さがそれらを受け止め、素朴感が心を温める。

なるほど、これじゃあ他店も変えようがないなあ。まさに人間の食欲のツボを突く、黄金比率なのである。

「俺も、父も、おじいちゃんも、店を広げることには興味がなくて」と健太郎さんが言うように「味太助」は一軒しかない。

その仕込みを見せてもらった。切ったタンを皿に重ね、塩胡椒をし、また重ねていく。26頭分を一つの皿に重ね終わると、高さ30cmにもなった。これを一日ねかせば、味が凝縮した牛タンとなるのである。

テールは筋と脂を取り、関節ごとに切り、沸騰させないように火加減に気を配りながら、2日間煮込む。初代から全くやり方を変えていないという仕込みは、延々と続く単純作業である。

「特別なことは何もしていません。真似しようと思えば誰でもできてしまうことなんです」と、彼は言う。

「でも」と、続けた。

「だからこそ、毎日やっていても飽きることがないんです」

タンもテールも、個体差がある。季節によっても違う。それを一瞬にして判断し、60数年変わらぬ味に仕上げる。毎日同じ仕事を繰り返すからこそ、仕事の深さがある。

「父の仕事は、僕とは比べ物にならないほど、恐ろしく早かったです」と言う彼は、2年目の繁忙期を越えてから、自信が芽生えてきたと話す。

「いや、でも本当は、まだ自信があるなんて言えないです。親父からは、塩をふるときに感情を入れてはいけないと、ただそれだけを言われました。無心でやれということなんですね。この仕事は単純だけど、終わりはありません」

ひたすら、ひたすらタンを重ね、塩をふりながら父のことを話す彼の眼には、努力の人であった父を超えようとする炎が、静かに燃えていた。

(文・マッキー牧本 撮影・茅原田哲郎)