HP「Hillary for America」より

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 アメリカ大統領選は、最終盤で、FBIがヒラリー・クリントンの私用メール問題の再捜査を始めたことで、ヒラリーの支持率が急落。一部の世論調査では、死に体といわれていたドナルド・トランプに逆転されるという結果が出て、最後まで予断を許さない状況となっている。仮にヒラリーが選挙に勝利して大統領に就任できたとしても、メール問題はまだまだ尾を引きそうだ。

 だが、ヒラリーをめぐっては、もうひとつ、私用メールとは別の興味深いメールの存在が明らかになった。

 それは、内部告発サイト「ウィキリークス」が暴露したものだ。ウィキリークスはこのところ、ハッキングで流出したヒラリー陣営の大統領選選対本部長のメールを公開しているが、その中に、こんな一節があったのだ。

〈ヒラリー・クリントンは、「"尖閣諸島をめぐる混乱"は中央政府に行動を強いた日本の国粋主義者のせいで起きた」と語った〉

 そして、文書は続けて、ヒラリーのこんな発言を掲載している。

「しかし、(日本では)国粋主義的な圧力が強まっていて、日本全体の方向性を決める役割とは程遠い立場の知事、市長の中にも、国粋主義的なリーダーがいます。"尖閣をめぐる混乱"の原因は、尖閣諸島が個人所有だったこと、そして、東京都知事が尖閣諸島を購入しようとして、直接的に中国を挑発したことです。それまで日中両政府は(尖閣について)互いに何もせず、関心を払わないことになっていました。そのため、日本の前政府(野田政権)は、『なんてことだ。都に購入させてはならないから、日本政府として尖閣を購入すべきだ』と決断するに至ったのです」

 これは、2013年4月6日の米金融大手ゴールドマン・サックスで行った非公開の講演をレポートしたものらしいが、ようするに、ヒラリーは尖閣をめぐる日中対立はもっぱら日本の国粋主義が原因で起きたと言っているのだ。

 おそらくこれを読むと、ネトウヨのみなさんはヒラリーのことを親中で反日だといきりたつかもしれない。いや、ネトウヨだけでなく、安倍政権によってさんざん「中国の脅威」を吹き込まれてきた日本人の多くは「日本の領土や領海を狙って中国がいきなり侵犯してきたのに、何を言っているのか」とヒラリーを批判したくなるだろう。

 しかし、ヒラリーは別に親中的な立場でこれを言ったわけではない。実際、同じ講演では「もし北京が北朝鮮の"核の野望"を抑え込むことに失敗したら、ミサイル防衛で中国を包囲するつもりだ」と、中国を恫喝するようなセリフも吐いている。

 にもかかわらず、ヒラリーが尖閣諸島の件で同盟国の日本を批判したのは、それが客観的な事実だからだ。

 たしかに、中国が南シナ海などで横暴な海洋進出を行っていることは事実だ。しかし、その中国も尖閣諸島については、もともとはかなり抑制的だった。それは、日中国交正常化の際、両国政府が尖閣問題を「棚上げ」するという暗黙の合意があったからだ。

 ところが12年4月、日本の側がこれを破ってしまう。当時、東京都知事だった石原慎太郎が突如、都で尖閣諸島の一部を買い取るという計画をぶちあげ、購入資金にあてる寄付金を募り始めたのだ。この動きを受け、当時の野田首相は、中国に対してタカ派の姿勢を鮮明にする石原の東京都が尖閣を購入するよりも、国の保有としたほうが反発は少ないと判断し、国有化という苦渋の決断をしたのだ。

 しかし、中国側は、この尖閣国有化により、日本政府が尖閣の実効支配を強め、挑発してきたと受け止め、中国内では「反日デモ」が勃発。そして中国側と合わせ鏡の形で、日本国内のナショナリズムもまた大衆的なレベルで強く燃え盛り、今日の日中関係の悪化へと至った。

 事実、海上保安庁が発表している「中国公船等による尖閣諸島周辺の接続水域内入域及び領海侵入隻数」によれば、日本の領海内、また継続水域内で確認された中国船の隻数は、12年9月を境にそれまで年間数隻だったのが、爆発的に増加している。

 それまで日本政府はあくまで尖閣諸島の「棚上げ」の認識を保つことで(綱渡りであったとしても)かろうじて中国側とのバランスをとろうとしてきた。ところが石原の購入計画に端を発する国有化で、中国側に日本が「棚上げ」の姿勢を崩したとみなされ、領海侵入の"口実"をつくらせてしまった。

 そういう意味では、尖閣をめぐる日中対立は、石原慎太郎都知事がもたらした、東京五輪や豊洲新市場以上のとんでもない"負の遺産"だったのだ。

 そして、そのことを指摘したヒラリー・クリントンの非公開講演での発言は、事実にもとづいたごく真っ当なものだったといえよう。しかも、13年といえば、ヒラリーが外交政策を担う米国務長官を退任した直後であり、これは米国政府、いや、国際社会の共通認識でもあった。

 しかし、今の日本ではそうした国際感覚は完全に失われてしまった。その後の安倍政権が軌道修正するどころか、この日中対立をさらにエスカレートさせていったからだ。安倍首相は野党時代、「中国の領海侵犯はけしからん」という世論を散々煽り、首相になってからはそれを利用して、逆に自らの政治的思惑、すなわち"戦争のできる国づくり"を推し進めてきた。その結果が新安保関連法であることは言うまでもない。

 そして、安倍政権は今も、北朝鮮のミサイルと中国の海洋進出の脅威を煽ることで、憲法改正の必要性を強く訴えている。

 人類学者のアーネスト・ゲルナーは、ナショナリズムは所与のものではなく、人々は近代産業社会以降の言語交流や教育システムによって匿名的、流動的に結びつけられているとした。

 領土もまさにそのひとつだ。直接足を運んだこともなく、その存在を地図上でしか知らない島に国民がここまで熱くなるのは、それこそ、メディアや教育によってその意識をつくられてきたからだ。そして、国家の指導者たちは、法的な強制よりも領土・領海を意識させることのほうがはるかに国民支配を強化できることを知っている。

 そういう意味では、ヒラリー・クリントンの流出メールは、尖閣問題を自発的な愛国心の発露だと勘違いしている私たちが、実はそれが国粋主義者たちによって仕掛けられたことを思い出すきっかけになるものだったといえるだろう。ただ、この国のマスコミは、それがアメリカ次期大統領の可能性のある人物の発言であっても、国粋主義者たちが反発するような報道はほとんどできない。おそらくこの情報に国民が触れることはないだろうし、尖閣問題の本当の原因も思い出されることはないだろう。
(宮島みつや)