【70年代のF1マシン】最高のサウンドをもつV12も作ったイギリスの名門BRM

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グランプリの主導権を大英帝国にもたらした立役者

今でこそ、F1GPにおけるトップチームはイギリス国内に本拠を構えるケースが多い。いやフェラーリなど幾つかのケースを除けば、ほとんどがイギリス・チームといって良いだろう。

だがF1GPが制定されるずっと前、2リッター・フォーミュラだったり1リッター・フォーミュラ、あるいは3リッター・フォーミュラだったりと、頻繁にレギュレーションが変更されていた1920年代〜30年代にかけてのグランプリを牛耳っていたのはアルファ・ロメオやフェラーリ、マセラティといったイタリア車と、タルボ・ラーゴ、シムカ・ゴルディーニといったフランス車、そしてアウディ/アウトユニオンやメルセデス・ベンツといったドイツ車だった。

その状況に一矢報いるべく登場したのがERA。イングリッシュ・レーシング・オートモビルズと、壮大なネーミングで1934年に設立されたレーシングカー・コンストラクターは戦前の一時期、ヨーロッパ(大陸)勢を相手に健闘し、一時代の栄光を築くことになった。

そんなERAのあとを受け、第2次世界大戦が終戦を迎えた45年に誕生したのがBRM(ブリティッシュ・レーシング・モーターズ)。「あとを受け」というのは、ERAの設立の主導的立場にあった技術者のレイモンド・メイズとレーシングドライバーのピーター・バーソンが、ERAと袂を分かったあとに設立したから。

いずれにしてもイタリアとドイツ、フランス各国のチーム/マシンに打ち勝って、大英帝国の栄光を取り戻そうという主旨は共通だった。

そして1950年、新たに制定されたF1GPが始まった。開幕戦の舞台はシルバーストンで、英国期待のマシンにとっては晴れ舞台となるはずだったが、熟成が間に合わずデモランにとどまったのは残念至極。それでも翌51年のイギリスGPで無事デビューを果たすと、世界選手権がF2で戦われた52〜53年を含めて4シーズンに渡って参戦休止をしていたものの56年に復帰。

ここからレギュラー参戦を続けることになる。そして次第に地力を蓄え62年には念願だったワールドチャンピオン(コンストラクターズカップ)を手に入れることになる。58年から設けられたコンストラクターズカップでは同じイギリス勢のヴァンウォール(58年)とクーパー(59〜60年)に先を越されていたが、それでもメイズとバーソンの想いが実現したことには変わりがない。この辺り、50〜60年代のBRMに関しては、また別の機会にでも紹介することにして、今回は70年代のBRMだ。

トニー・サウスゲートが手掛けたコンベンショナルなマシン

1970 BRM P153・BRM P142 2998cc 60゜V12

前年まで渋いトーンのブリティッシュグリーンに包まれていたBRMだが、70年代に入り完全なニューマシンを投入したのに合わせて、ヤードレイ化粧品をタイトルスポンサーに迎え、白地にゴールドと赤、黒のストライプが映えるカラーリングに一新されていた。

前年までのP139から一新されP153と命名されたニューマシンは、トニー・サウスゲートがデザイン。70年に主任技師としてBRMに迎えられたサウスゲートにとっては、BRMでの初作となった。局面で構成されたモノコック、いわゆる“下膨れ”のボディシェイプは特徴的だが、それに組み付けられたサスペンションは前後ともにアウトボード式のダブルウィッシュボーン・タイプ。

サスペンションアームもパイプで組まれていて、サウスゲートがすべてを設計した最初のマシンらしく、ずいぶんとコンベンショナルなパッケージとなっていた。70年シーズンの開幕からペドロ・ロドリゲスとジャッキー・オリバーのコンビで参戦し、第4戦のベルギーではロドリゲスが、チームにとっては66年以来、ロドリゲスにとっても67年以来となる優勝を飾っている。

コンストラクターズカップでは6位に留まったが期待は高まった。そして実際、改変モデルのP160で戦った翌71年には、常時3台が出場。コンストラクターズカップ2位に進出している。一方シーズン半ばにロドリゲスが事故で死亡、代わってエースに昇格したジョセフ・シフェールもシーズン後に事故で死亡するなど、悲しみに満ちたシーズンでもあった。ドニントンGPコレクションにて撮影。

赤と白に塗り分けられたマールボロ・カラーのパイオニア

1972 BRM P180・BRM P142 2998cc 60゜V12

マールボロ・カラーのF1マシンといえば、まず真っ先に思い起こされるのがマクラーレンだろう。だが、F1GPシーンで最初に、赤と白に塗り分けるマールボロ・カラーで登場したのは1972年シーズンのBRMだった。もちろんカラーリングだけでなくマシンそのものも大きく変更されていた。

71年シーズンをP153の改変モデルであるP160で戦ったBRMは、72年シーズンに向け大幅に進化させたP180を用意。発表時にはスポーツカーノーズを採用していたが、これがウイングノーズの両サイドにフロントタイヤ用のフェアリンクを装着したような形状で、空力に対する新たなチャレンジでもあったように思われた。残念ながら、実戦デビューに際しては一般的なウィングノーズにコンバートされており、セットアップが難しいことを窺わせた。

またこれも空力的なトライだが、モノコックを低くし、コクピットはカウル部分がそびえ立つような形状とされたが、スリムさを追求するあまり、ステアリングに干渉するようになり、その“逃げ”としてホールが設けられている。何よりもラジエータをテール部分にマウントするパッケージが特徴的だった。前作に続いて、デザインを手掛けたのはトニー・サウスゲート。

ヨーロッパ・ラウンド序盤のスペインでデビュー。ただし熟成に手間取り、前年モデルをアップデートしたP160Bが主戦で、ジャン-ピエール・ベルトワーズがモナコで挙げたシーズン唯一の勝利もこれによるものだった。

写真はドニントンGPコレクションに収蔵展示されている72年仕様のP180。ちなみに、70〜71年とタイトルスポンサーだったヤードレイ化粧品は72年からマクラーレンのタイトルスポンサーとなっているが、マールボロもまたBRMを73年限りで去り、タイトルスポンサーとしてマクラーレンへと移っていった。

速さはともかくサウンドは紛れもなくトップレベル

1975 BRM P201・Type P200 V12

1968 Cooper T86B - BRM V12(ごく初期的なBRM V12エンジンを搭載したモデル)

タイトルスポンサーだったマールボロがマクラーレンに去り、資金難で迎えた1974年だったが、BRMはブランニューのP201を用意してシーズンを戦うことになった。トニー・サウスゲートがシャドウに去ったために、かつて4輪駆動のBRM P67などを手掛けていたマイク・ピルビームがデザインを担当。ゴードン・マレーがデザインして一世を風靡したブラバムと同様、三角断面のモノコックをもつ、斬新なデザインが最大の特徴だった。

ただしスポンサーマネーの欠乏は如何ともし難かった。74年シーズンは、前年から残留したジャン-ピエール・ベルトワーズに加えてアンリ・ぺスカロロとフランソワ・ミゴールが加入し、フランス人ドライバー・トリオで戦うことになりフランスのモチュールがメインスポンサーとなったが、75年はチームを買い取った(再建を引き受けた)ルイス・スタンレイ卿の自己資金で細々と運営。

とてもマシンの熟成や戦闘力アップなどは望むべくもなかったのかもしれない。それでも67年に原形がマクラーレンに供給される格好で登場し着実に熟成されてきたV12エンジンのエキゾーストノートは、当時のF1GPにおいて間違いなく最高レベル。カン高いソプラノサウンドは聞いているだけで最高だった。

もっとも絶対的なスピードは、マクラーレンやティレルなどコスワースDFVのトップクラスのほうが、間違いなくそして遥かに速かったことが思い出される。75年オーストリアGPで撮影。

(文・写真:原田了)