『ビジネスに効く教養としての中国古典』(守屋洋著・プレジデント社)

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■天命などない。運命は自分で切り開け

荀子は何を主張したのか。孟子とのいちばん大きな違いは、性悪説を唱えたことであろう。荀子のことばを引けばこうである。

「人の性は悪、その善なるは偽(ぎ)なり」(性悪篇)

人間の本性は悪である。善なる部分は後天的な努力によって身につけたものにすぎないのだという。

人間の本性が悪だとすれば、これをそのまま放置しておいたのでは、社会そのものが成り立たなくなる。そこで荀子は悪なる本性を押さえ込む規範が必要だとして、礼と義、二つ併せて礼義を持ち出してくる。

孟子の重視した仁義が心の内面の在り方を指しているのに対し、荀子の言う礼義の規範は、法的な強制力を伴う側面まで含んでいる。限りなく法に近いのである。そこに孟子との大きな違いがあった。

さらに荀子の主張でもう一つ特筆しておきたいのは、儒家の拠り所とも言うべき「天命思想」をきっぱり否定していることである。

孔子にしても孟子にしても、人間社会のもろもろの出来事はすべて天命(天の意志)が介在しているとして、道徳の根拠を天に求めてきた。荀子はこれを否定したのである。

「君子はその己(おのれ)に在る者を敬して、その天に在る者を慕わず」(天論篇)

君子は、人間としてなすべき努力をし、天の計らいに期待をかけないのだという。

つまり、天にゲタをあずけるような生き方はするな、自分の運命は自分で切り開いていけ、ということであろう。

■人間の歴史は失敗の歴史。同じ轍を踏まぬよう学べ

現実主義のこの古典から何を学べばよいのか。冷静な判断と慎重な対応、この二つである。

「およそ人の患(うれ)いは、一曲に蔽(おお)われて大理(たいり)に闇(くら)きにあり」(解蔽(かいへい)篇)

人間の通弊は、ものごとの一面だけを見て、全体を把握できないところにある。

なぜこんなことになるのか。荀子によれば、偏見によって心が惑わされるからだとして、こう語っている。

「心が惑わされるのは、好悪の感情に左右されるからである。始終、遠近、広狭の一方にとらわれるからである。過去、現在の一方にとらわれるからである。一面だけにとらわれると、心が惑わされて大局的な判断ができなくなってしまう」

それを免れようとするなら、自覚的な努力によって、頭は常に柔軟にしておかなければならない。

「前車已(すで)に覆(くつがえ)るに、後(うしろ)いまだ更(あらた)むるを知らず、何(なん)ぞ覚(さと)る時あらん」(成相(せいそう)篇)

前を走る車がひっくり返っているのに、後からついて行った車が進路を変えようとしない。いつになったら気づくのだろうか。

人間の歴史は、失敗の歴史だと言っていいほど数多くの失敗を演じてきた。後に続く者はそれに学んでほしいのだという。

だが、こういう忠告にもかかわらず、後に続く人間は性懲りもなく同じ失敗を繰り返してきた。学習効果はあがっていない。

経営についてはどうか。

成功の体験やノウハウは、その人独自のものが多く、学ぼうとしても学べるものではない。その点、失敗の原因はおおむね共通している。

しっかり学んで、同じ轍を踏まないようにしたい。

※本連載は書籍『ビジネスに効く教養としての中国古典』(守屋洋 著)からの抜粋です。

(守屋洋=文)