『ヤクザと憲法』『ふたりの死刑囚』ー東海テレビの境界線を越えるドキュメンタリー作りの核心(後編)

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ヤクザの日常に密着し、人権問題を描いた『ヤクザと憲法』、世間から鬼畜弁護士と言われた光市母子殺害事件の弁護士、安田好弘を捉えた『死刑弁護人』、戸塚ヨットスクールを描いた『平成ジレンマ』など、東海テレビは数々のドキュメンタリー番組を放映し、そのいくつかは映画化され全国に届けられてきた。
東海テレビが扱うテーマは、民放キー局では目にすることができないものは多い。なぜ彼らは問題作を次々に作ることができるのか。前半ではプロデューサーの阿武野勝彦に、彼がドキュメンタリーに関わるようになった経緯から語ってもらった。
後編の今回は、メディアのNGと自主規制、ザ界線を越えるイ班召気譴襪修離疋ュメンタリー作りの核心にまで話が及んだ。

前編はこちら

―光市母子殺害事件の後に制作された『光と影 〜光市母子殺害事件 弁護団の300日〜』の時が特にそうだったと思うのですが、多くのメディアが過剰に同調しているなかでそこに飲まれないでこうした作品を作るのは本当に大変なことだと思います。

さっき毎日新聞の方と話していて気がついたんですが、私たちの番組は本当に非効率の塊なんですよ。ロケに1回10万円がかかったとすると10回行ったら100万円でしょ、予算270万円だったらあと何回行ったら大きなカメラでの取材は終わりっていう計算になりますよね。そんなに何度も取材ができない。となると、通常はイベントを撮りに行くんです。何か起こる日、何かが予定されている日を撮りに行くんですけど、僕らはなるべくイベントを撮りにいかないで日常を撮りに行ってる。そこで起こることを観察しているというか、見ているようなかたちなので、取材に行く日数と期間が非常に長いんです。ものによっては、40分テープで4〜500本もあって、本当に非効率の極みですよね。

―ええ。

その非効率を推し進めていると、腰が据わってくるんですよ。現場で思索する時間が長いので、この題材にどっぷり関わっていく。そのなかで、ゼ信を持って伝えられるイ辰討いΔ海箸鯤圓濬个靴討いんですよね。それがおそらく取材の醍醐味だし、ドキュメンタリーの醍醐味でもあると思うんです。

要するに、非効率のお蔭で、最終的には腰が据わる。そうなると、どういう反応が起こるかっていうことについても考える。で、波風をたてるのがそもそも私たちの仕事なんじゃないの? っていうことも考える。誰も何も思わないものを作り続けても意味がないじゃないですか。それはおそらく、ゥ疋ュメンタリーのようなものイ任△辰董▲疋ュメンタリーではない。ゥ疋ュメンタリーのようなものイたくさん出ているから、観る人がゥ疋ュメンタリーってつまらない、なんだかいつも見たことのあるようなものだイ辰童なくなり、引いてはドキュメンタリーという畑をやせ細そらせていく。今、そのなかに私たちはいるので、多くの人に観てもらうためには、まず一本一本を思いを込めて丁寧に作る。しかも、人がどう考えるかを先に想定して、問題が起きないように作るなんていうことをしないほうが良い。私は表現なんだから、勝負しなさいっていうふうに思ってるんですけどね。ただ、あんまり問題がうわーってなると大変なので頃合のいいところで、とは願うんですけど。それはコントロールできないですからね。

―東海テレビは、局としてのNGはないんですか?

それはたくさんありますよ。例えば、『ふたりの死刑囚』(2015年)という作品は、亡くなった奥西 勝さんの死に顔を撮っているんです。今のメディアはセ爐亡蕕覆鵑出すのはとんでもないイ箸覆辰討い泙垢茲諭私たちはテレビでも放送しているので、本当はNGなんだと思います。だけど、ス中死した人はこんな顔です。慟哭するような顔をしています。こんな顔をして亡くなりました、と出すことはすごく重要なことなんですァそういう意味があるんです。だから死に顔でも出しました。
私たちの日常は死を遠ざけてきたという社会状況もありますよね。家の中で死ぬっていうことがほぼなくなって、多くの人が病院で亡くなっている。家族の中に生から死へと近づいていくランディングがない。たとえば、かつてチャウシェスクが死んだ時には映像が出ていたはずなんですけど、ビン・ラディンの映像は伏せられた。時代が少し変わるだけで、死んだ、殺害されたという事実をメディアは描けなくなったんです。そうして表現はどんどん閉じていく。なぜ? って言ったらゥ瀬瓩世らダメなんだよイ辰討いν靄修粉兇犬砲覆辰討い辰討靴泙Α


『ふたりの死刑囚』(C)東海テレビ放送

―ただ、亡くなった人の顔を出すのはNGっていうわけではなくて、そこに意味があれば場合によってはOKにする、ということですね。

『人生フルーツ』(2016年)でも、津端修一さんという方が亡くなるんですけど、ッ訖欧帽圓って言って亡くなった人の顔はこんな安らかな綺麗な顔なんですよイ箸いΠ嫐で人生の充実した終焉として見せるというのは、まったく同じことです。放送でも出しましたが、誰も何のクレームも言ってきません。だけど、放送局員は概ね死に顔はNGだと思っている。思い込んでいる。表現を豊かなものにするために、閉じないで、縛らないで、決めつけないで広げていく方法を、小さい積み重ねかもしれないけれど、積み重ねていくしかないと思います。

『人生フルーツ』(C)東海テレビ放送

―逆にこの異常なまでのメディアの自主規制っていうのは、どう感じているんですか?

はじめに言いましたけど、みんな頭がいいんですよ。頭がいいと転ばないようにするじゃないですか。で、転ばないようにするにはどうしたらいいかを考える。で、最終的に誰かが責任を負わなきゃならないけれど、ニ佑里擦い犬磴覆イ辰討笋蟷呂瓩襪犬磴覆い任垢。だから、空気を読むのが本当に上手になる。空気を読むのが上手な人がメディアに入ってくるんじゃないですか? 世の中が、そういう人を求めているのかもしれない。だから必然ですよね。

―なるほど。

『ヤクザと憲法』の時に、作家の宮崎 学さんとお話したんですが、その時に「みんな無菌、無臭な社会にしたいんだ」っていうことをおっしゃっていて、そうだなって思ったんですよ。ゥ妊ドラントな社会イ箸いΩ世なをしていましたね。それは無リスクだっていうことですね。これからもっと、なるべくデオドラントに、無味無臭にしようっていうふうになっていくんじゃないですかね。テレビのモザイクも同じことだと思います。街でリポートしている映像を見ると、横断歩道を歩く人たちの顔にモザイクがかかったりしているでしょう? この間、大学の授業の時に学生に「気にならない?」聞いたら「は?」「気にならない」って言うんです。彼らの世代は、気がついた時にはそうたったから自然なんですね。

―そうなんですか?

それにコメントフォローという字幕がない番組を見せたら、「なんで字幕が出ないんですか?」って言っていました。「なんで字幕が必要なの?」「いつも出てるから」って。最初は『電波少年』か『探偵ナイトスクープ』で演出として出し始めたのが、知らないうちに何事にもつけるようになっていった。それも過剰同調していくんです。で、ないと違和感があるようになる。「何のため?」って問いを推し進めていくと、最後こう言うんですよ。「耳が聴こえない人のため」「それはボタンを押すと出てくるようになってるから、耳が聴こえない人のためじゃないよ」「じゃあなんでですか? 意味がわからないです」と。要は、分かりやすくするためなんですね。だけど、画面に文字があると、喋っている人の表情じゃなくて字幕を見ちゃうじゃないですか。そうすると表情を読み取るっていうことからかけ離れていってしまう。

もし表情が必要じゃないのなら「モザイクをかけてもいいんじゃない?」っていうふうになってしまう。映像に醸し出される雰囲気から読み取れるものがたくさんあるはずなのに、そこに誘導すること自体にどういう意味があるのかっていうのを考えてもいない。そうした前例主義みたいなものがはびこって、表現を痩せ細らせている部分はあると思います。最後はモザイクで匿名社会の恐怖におびえるようになってしのうかも。だから、みんなで非効率をやりましょうと思うんですけどね。

―あと、森 達也さんがよく「視点を変えれば見えるものが変わる」というようなことをおっしゃっていますが、東海テレビのドキュメンタリー製作において、どの視点から撮るというような哲学はあるんでしょうか?

明確にはまったくないですね。まず組んだスタッフと取材対象のなかで、撮れてきた映像があります。その映像として撮れてきたものと、撮れてないけれど感じたてきたものを、番組のなかに盛り込もうとする時に、スタッフが火花を散らしてやりあうんです。例えば、ディレクターが「これは画がなくても表現したいんだ。こんなやり方があるんじゃないか」って言って、一方の編集マンは「この程度の画のバリエーションでは無理だ」とかね。それぞれが番組を作る時に、「僕は編集マンだから画を繋いでりゃいい」とか、「私はタイムキーパーだから時間出ししとけばいい」っていうんじゃなくて、みんなで作品を自分の表現として私有するんです。共有というときれいごとになって、だいたい、いい加減なことになるんで(笑)。だからおそらく、編集マンも、タイムキーパーも、関わった人たちが「私の番組だ」って思っている。そのくらいスタッフたちが火花を散らしたものが、最終的に表現のなかに盛り込まれていくので。だから取材に行く時は、ゼロですね。撮れてきたものを最終的に編集、構成する作業で、ガチャガチャやる。で、現場ではカメラマンとディレクターがガチャガチャやってますから。どこでどういう火花が散っているかによって、作品がどういう方向にいくかっていうのが決まるのであって。哲学もないし、航海図もないですね。

―道順も、ゴールもわからないっていう?

燃料だけはとりあえず積んでいるんですけど、最終目的地がどこかも決まっていないし、最終的にもしかするとガソリンがなくなる可能性もありながらも、港を出るっていう感じですよね。

―撮られた素材はすべてご覧になるんですか?

編集マンは全部見ますね。ディレクターも見ます。で、編集マンはインタビューの一字一句ぜんぶを文字に起こします。それで真剣勝負をディレクターとする。で、第1稿ができる。そこで初めてプロデューサーが入って、タイムキーパーも呼んで、観てイ匹Αイ澆燭い粉兇犬任垢諭「こういう方向性が出ているね」とか「いいんじゃない?」とか言いながら、ある方向へ進んでいったり・・・。毎回毎回、同じパターンはひとつもないです。プロデューサーの関わり方としても、原稿を書いちゃう時もあれば、編集、構成をしちゃう時もあるし、何もしないこともあります。

―日本ってまだまだタブーな話題があると思うんですが、今後も自分たちが発信したいと思うものであればどんどんチャレンジをされていくんですか?

自分というより、ディレクターが何をやりたいかですね。これをやりなさいっていうのはあんまりないんです。こっちが空っぽになっておいたほうがやりやすいんですよね、実際私は空っぽなんですけど(笑)。ディレクターがこれをやりたい、って持ってくるので「まぁやりなよ」と。最初に思っていたこととはまったく違うものになっているケースもありますけど、それは尊重してイいい梨イ辰董イ△仝つけたんだね。そんなことがあるんだ、それはみんなに知ってもらいたいねイ辰討いΑそういうことのような気がします。

―監督はもうやられないんですか?

正直に言うと、僕よりも取材の上手な後輩がたくさんいるんですよ。完全に負けました。だからみんながやってきた美味しいところをチューって吸うのがいちばんいいなって(笑)。

―(笑)!

もっと能力のある人間、取材能力のある人間をたくさん見たので、もうできないですね。ダサって言われちゃうので(笑)。

KATSUHIKO ABUNO
阿武野勝彦 ◯1959年、静岡県生まれ。東海テレビプロデューサー。1981年、報道局アナウンサーとして東海テレビ入社。1992年に岐阜県駐在記者。主なディレクター作品に『ガウディへの旅』(1990年/日本民間放送連盟賞)、『はたらいてはたらいて〜小児科診療所と老人たち〜』(1992年/文化庁芸術作品賞)、『村と戦争』(1995年/放送文化基金賞)、『約束〜日本一のダムが奪うもの〜』(2007年/地方の時代映像祭グランプリ)ほか。プロデュース作品には、『裁判長のお弁当』(2008年/ギャラクシー賞大賞)、『光と影〜光市母子殺害事件 弁護団の300日〜』(2008年/日本民間放送連盟賞 最優秀賞、芸術祭優秀賞、ギャラクシー賞優秀賞)など多数。個人賞に、放送人グランプリ(2008)日本記者クラブ賞(2009年)がある。


特集上映「東海テレビドキュメンタリーの世界」
2016年10月29日(土)〜11月18日(金)まで、東京・ポレポレ東中野にて公開、ほか全国順次予定
当日券:1,300 円(税込)均一
前売券:3回券 3,300 円(開催期間中も販売あり・劇場窓口のみでの販売)
企画:東風+ポレポレ東中野 提供・制作・著作:東海テレビ放送
http://www.tokaidoc.com/
(C)東海テレビ放送

イベント情報
シンポジウム
『FAKE』と『ヤクザと憲法』の作り手たちと語る「ドキュメンタリーの現在」
11月3日(木・祝)15:30 より
パネリスト:森 達也(映画監督・作家)、橋本佳子(ドキュメンタリージャパン プロデューサー)、大槻貴宏(ポレポレ東中野支配人)、阿武野勝彦(東海テレビ プロデューサー)
司会:石井 彰(放送作家)

トークショー
樹木希林(女優)×阿武野勝彦(東海テレビ プロデューサー)
11月6日(日)15:30 〜『戦後70年 樹木希林 ドキュメンタリーの旅「いくさのかけら」』上映後