■追悼・平尾誠二@後編

 1995年1月15日、国立競技場で行なわれた日本選手権――。神戸製鋼は大学チャンピオンの大東文化大を相手に15トライの猛攻で102−14と圧勝し、7連覇を達成した。

 だが、翌年の全国社会人大会・準々決勝。サントリーにノーサイド直前で同点のペナルティゴールを決められ、トライ差で準決勝進出ならず。平尾誠二は、このシーズン限りで第一線を退いた。

 あれは、現役引退を表明し、神戸製鋼で日本ラグビー界初のゼネラルマネージャー(GM)に就任した1997年2月のちょっと前だったろうか。私が趣味で「草ラグビーをしている」と告げると、平尾は笑いながらも、ちょっと寂しそうに言った。

「ええですねぇ、いつまでもラグビーができて。僕らはそうはいかんですわ。求められるラグビーができんようになったら、やめなあかんもん」

 この年、史上最年少で日本代表(ジャパン)監督に就任した平尾は、選手のとき以上に取材に応じ、練習や試合後に選手が引き上げても、自らスポークスマンに徹して記者たちの質問に丁寧に答えた。長野・菅平(すがだいら)合宿では、午後の練習に備えて選手たちが昼寝をしていても、平尾は眠い目をこすりながら個別取材も引き受けてくれた。

 前回の1995年ワールドカップ南アフリカ大会で、ジャパンはニュージーランド代表「オールブラックス」に17−145と歴史的大敗。「日本ラグビー最後の切り札」として監督に就任したときは、「世界にひと泡吹かせたい」と語っていたが、再建は思い描いたようには進まなかった。それでも、1年あまりかけて辛抱強くチームを強化すると、1998年10月にワールドカップ・アジア予選を見事突破。本戦を5ヶ月後に控えた1999年5月には、格上が揃うパシフィック・リム選手権で悲願の優勝を成し遂げた。

 期待が高まる時期に行なわれたインタビューでの出来事。そのとき平尾は、のちに日本の武器として掲げるようになった「リズム&テンポ」という言葉を閃(ひらめ)いた。正確に言えば、「わかりやすく、伝えやすいキーワード」を探し当てた。

「よく、『日本らしさを前面に出して勝負する』と言いますけど、この『らしさ』というのが怪しい。たしかに日本人ならではの器用さ、すばしっこさは世界を相手にしたとき、大きな武器となりますよ。でも逆に、『らしさ』ゆえに負けてきたこともある。まずは、そこのところを整理することから始めないと。スピード? いや、違う。う〜ん......、そや、『リズム&テンポ』や。ほら、祭りのときの太鼓のリズムとテンポ。日本人の身体に沁みついている、アレですわ」

 日本ラグビー史に残るかもしれない、貴重な瞬間に立ち会った私は興奮した。

 代表監督となった平尾は、選び抜いた選手たちのフィットネスを最大限まで高め、ディフェンスを徹底的に強化。ゲーム練習のなかでは、選手ひとりひとりに創造性豊かな判断力を磨かせた。

「ようやくチームらしくなってきた、ということですかね。チームのスピリットや学習能力がついて、自分たちで目標を設定したり、問題を消化できるようになった。言い換えれば、ひとつの高度な生命体として機能できるようになった、ということでしょうか。ゲームでも、たとえ誰かがミスしても、それをチーム全体がリカバリーできるから、致命傷にならない。そして、状況に応じて『リズム』を変え、チャンスとなればどんどん『テンポ』を上げて、高速ラグビーで勝負する。

 正直、いくら強くなったと言っても、世界の強豪が一堂に会するワールドカップは実際に試合をしてみないとわからない。だが、我々が取り組んできたプロジェクトはしっかりと機能し、自分たちなりに考えてきた強化はできたはず。やるだけのことはやった。あとは『結果を見てください』という心境です」

 平尾ジャパン、3年目の挑戦――。失った誇りを取り戻した日本代表は、意気揚々と1999年ワールドカップの開催地・ウェールズに乗り込んだ。ところが、結果は3戦全敗。ワールドカップがスタートして4回目の大会、各国の強化は日本の予想をはるかに超えて進んでいた。

 大会後も平尾は監督を続投したが、2000年パシフィック・リム選手権で全敗。11月のヨーロッパ遠征でも惜敗すると、辞任を決意した。

 現場から離れることになったものの、平尾はさまざまな活動で多忙を極めるなか、「ラグビーを盛り上げるためなら」と、雑誌での連載企画を快く引き受けてくれた。私と『ぴあ』の編集者は毎月のように神戸まで通って1時間ほどインタビューし、ジャパンや社会人だけでなく、大学や高校の大会展望や見どころ、注目の選手などを語ってもらった。

 平尾は毎回、「わざわざ東京から神戸まで足を運んでくれてすまんね」と我々を労(ねぎら)い、ときには神戸牛のステーキやワインをご馳走してくれた。仕事である前にラグビーファンである私たちにとっては至福のとき。連載は不定期ながら、神戸製鋼の総監督兼GMに就任した2007年の春まで続けられた。

 平尾はラグビーの試合について語るとき、選手や監督に決してダメ出しをしなかった。好プレーを称え、勝者を祝福し、勝負の分け目となったプレーを的確に解説。たとえ選手がミスしても、ミスが生まれる状況を説き、自らの経験からアドバイスを送った。出しゃばらず、上から目線でもなく。常に、日本のラグビーを盛り上げるため、ファンがひとりでも多く試合に足を運んでくれるように、ラグビーの魅力を熱く語ってくれた。

 また、インタビューの話題は日本人論やビジネス論へと広がっていくことも多々あり、それがさらに連載を盛り上げた。

「日本人って、『状況によって変化します』なんて言われると、妙にオドオドする。スポーツだけなく、ビジネスの世界でも具体的にしていかないと気が済まない。また、『自分で決めろ』と言われるより、『決められたい』というのが日本人気質。

『日本人には何が足りないのか?』とよく聞かれるんですが、『判断力』と答えます。それが僕の持論ですが、外国人ヘッドコーチが指揮を執ることによって変わっていくと思いますよ。日本のラグビー界にとって、今は過渡期。新しい血をどんどん入れて、いろんなことにチャレンジしていけばいいと思います」

「トップリーグが始まって3年(2006年当時)、日本のレベルは確実にアップしてきました。選手ひとりひとりのレベルは、間違いなく上がっています。しかし、それがジャパンの力となるには、もう少し時間がかかる。日本人というのは、『何かやったら、すぐに何かが手に入る』と思っていますよね。だから、いいワインが造れなかったんです。成果を得るには、段階があるし、それを待っていないと。それでも、これからのジャパンは今まで以上に面白い試合を見せてくれますよ」

 2011年ワールドカップ第7回大会の地元開催に向けて、日本は招致活動を展開していた。2005年11月17日の深夜、東京・秩父宮ラグビー場にある日本ラグビー協会で、平尾は記者たちと吉報を待った。だが、日付が変わって届いたのは、「ニュージーランド決定」の知らせ。あのときの平尾が落胆した顔は、今も目に焼きついている。もちろん、2019年ワールドカップ第9回大会の日本開催が決まったときの歓喜の表情も。

 平尾に、日本で開催されるワールドカップを見せたかった。国際ラグビー評議会(現ワールドラグビー)当初の加盟国であるイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ以外で初めて行なわれる、記念すべき大会を見せたかった。

 日本ラグビー界は、貴重な舵取り役を失った。しかし、それでも「2019」は成功させなければならない。そのためにも、ファンも含め、この国でラグビーに携わるすべての人が平尾誠二の遺志を、ラグビーにかけた情熱を忘れずに受け継いでいこう。

宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya