ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。今回は映画『高慢と偏見とゾンビ』について語り合います。

高慢くんと、偏見ちゃんとラブコメ+ゾンビ



藤田 『高慢と偏見とゾンビ』は、セス・グラハム=スミスの原作を、バー・スティアーズ監督が映画化した異色作です。『高慢と偏見』は、ジェーン・オースティンが書いた、1813年の小説ですが、その世界観にゾンビが出てくるという設定を加えた、二次創作と言うか、マッシュアップですね、それが原作です。
 映画でも、英国の田舎の貴族の娘達が華美な着替えをする、ふわふわしたソフトフォーカスのシーンで、剣を装着していたり、娘が家で編み物をするみたいに銃の掃除をしているところとかが、実によかった。ラブコメ、貴族ものの画調と、戦争・ゾンビものの画調がぶつかる違和感が面白い。

飯田 おもしろかったですよ。正直言うと、全然期待しないで観に行ったんだけど……。ちなみに『高慢と偏見』は半分くらいしか読んだことがなく、原作『高慢と偏見とゾンビ』は読んでない状態で観に行きました。『高慢と偏見』はよく知らなくても全然いいんじゃないでしょうか。むしろ好きすぎると違和感あるだろうし。ロマンス小説とか恋愛映画好きの女性がどう思うかはわからないけど、アホな設定をおおまじめにやっていて好感でした。パンフレットによると監督のバー・スティアーズはすごく原作に敬意を払ってつくったらしいけど、それで正解だったんじゃないですかね。
 なんでもかんでもゾンビと混ぜるのは正直あんまり好きじゃない(というか飽きている)んだけど、これはさすが原作の時点で相当話題になっただけあってキャッチーだし、普通におもしろいし、批評性もあるし、よかったですよ。ゾンビものとして新奇性があるかどうかは……ゾンビ評論家の藤田くんの判断に任せます!

藤田 『高慢と偏見』は、19世紀イギリスの小説で、古典といわれてて、読みにくい印象があるんですが、実際には結構ラブコメというか、高橋留美子的な本で、今読んでも面白いですよ。「Pride and Prejudice」という原題は、現代日本語に訳すと、「高慢くんと、偏見ちゃん」という感じかな。イケメンでお金持ちで傲慢な「高慢くん」が、実はヒロインを好きで、ヒロインの「偏見ちゃん」も、「何よあの都会から来たいけ好かないやつ、嫌いよ!」って言っているんだけど、それらは偏見で、ツンデレ・すれ違いもののドラマです。今読んでも胸キュンします。

飯田 少女マンガですね。いい意味で。
 ヒロインのエリザベス・ベネット役のリリー・ジェームズがいまNHKでやってるドラマ『戦争と平和』にも出ていて、ちょうど時代設定も同じくらいで(ナポレオン戦争のころ)、これまたパンフによるとイギリスの国民軍がナポレオンに備えているのをゾンビ襲来に変えたのが『高慢と偏見とゾンビ』のようなので、『戦争と平和』でもロシアにとっての脅威であるナポレオン軍がゾンビだったらなあと思いながら『戦争と平和』を観ていますw

婚活モノでもあるよ!



藤田 田舎の貴族の娘が、「お金持ちと愛のない結婚」をさせようとする母親の意向に抗って、真実の愛を手に入れる(しかも相手はイケメンで、金持ち)という、なんとも、「願望充足乙」な物語なんですが、当時からしたら、結構、「革新的」で「女性解放的」な側面もある作品が、『高慢と偏見』です(色々読み方ありますが、気になる人は『ジェイン・オースティンの読書会』という映画を観てください)。で、『高慢と偏見とゾンビ』は、その世界観の中にゾンビを入れるだけでなく、ゾンビとカンフーや剣、銃で戦う女性たちという設定を入れてきた。女は家庭だけではなくて、カンフーもできなくちゃいけないし、そのカンフーの腕前をヒーローは認めて惚れる。それが良い。単にゾンビが出てくるだけじゃなくて、社会構造やジェンダー観にまで食い込んでいる。そこが面白い。

飯田 そうですね。最後、男のほうのピンチをヒロインが救うというのが象徴的ですね。
しかし、ゾンビ倒すためにみんななぜか中国か日本に武術修行に行ってるという設定がおかしいw 服装は全然東洋的な要素がないし、少林寺拳法を習ったはずの姉妹がみんな刃物で攻撃しまくるので「どこが中国武術なんだよ!」と思った。というか、このころ中国人に阿片売りまくってたんじゃないのか英国は、とか、日本は鎖国してないのかな、あの世界では、とか、ちょこちょこ気になりました。

藤田 日本に武術を習いに行ったほうが女性としての価値が高くて、中国にいくと格が低いみたいな差別と言うか、顕示が描かれているのも面白いですよね。
 原作ファンとしての不満は武術のところですね。「もっとカンフーしてよ!」ってとこですね。やっぱり、19世紀の英国の貴族がラブロマンスやりながら、その合間合間で、日常化したゾンビとカンフーで戦っているというのが面白いので、もっと、『マトリックス』ぐらいにはカンフーをやってほしかった。

飯田 バー・スティーズにしては相当がんばってアクション撮ったのでは? 基本、青春映画とかハデなアクションない作品を撮ってきた監督じゃないですか。あ、でも学園ものでバスケしたりダンスさせてはいたか……(『セブンティーン・アゲイン』)。

藤田 ちょっと、原作ファンとして文句を言うと、さらに、個人的には、ゾンビ方面に寄っている時間帯が、中後半で多いのが気になった。もう少し、ラブコメとか、貴族社会的なものの中のミスマッチ感を出して欲しかったけれども、「ゾンビとの共存可能性」みたいな結構世界の命運を握る感じに映画がシフトしちゃって、ラブコメ要素と貴族要素が減ったのが、物足りなかった。多分、原作になかった設定が映画版ではいくつか入ってきて、大袈裟になってしまった。そこは違う感じがした。もっと、日常の中に普通にゾンビがいる状態で社会が発展したらどうなるのかというシミュレーションの要素を強調してくれた方が面白かったかな。
 ラブロマンスパートも、エリザベスもさ、「本当は心の底では好きなんだけど、自分の本当の気持ちに気づけない」みたいなさ、心の揺れを、もうちょっと表情とかでうまく演じて欲しかったなぁ。あの二人の、心の中と、それを抑えて振る舞っている外観とのズレを観客にもっと伝えないと、ラブロマンスの成立の感動が薄れるし、ゾンビとの対比が弱まっちゃうよ!
 最初の、イギリスの貴族的な家に鉄条網があるような絵に象徴されるような、ミスマッチさが生命ですからね。アクションとゾンビとラブコメと貴族社会の家の問題を、等価に盛り上げないと! 

飯田 いけすかないイケメンのダーシーもヒロインのエリザベスも、想いを告白するところは唐突でしたね。それも含めておもしろかったけど。
 ロンドンがゾンビによって壊滅して封鎖されちゃうけど、19世紀までって都市部のほうが田舎より衛生状態(医者とか公衆衛生とか)がよくなくて住みにくかったし死にやすかったらしいね。病気が流行ったらあっという間に感染しちゃうのはむしろ都市部だったみたいなので、あれはけっこうリアリティあるんじゃないでしょうか。

藤田 都市については、そうでしょうね。小説『吸血鬼ドラキュラ』(1897)も、ロンドンと感染症の主題ですから、リアリティがある時代だったのだと思います。

21世紀のゾンビモノ――壁と、共存の主題



藤田 普通、ゾンビがいて、壁を作るときって、外側にゾンビがいて、壁の内側に「われわれ」がいるものなんですが(ロメロゾンビの「ショッピングモール方式」とぼくは勝手に呼んでますが)、本作は逆。壁の内側にゾンビを押し込めて、郊外というか、田園に人が住んでいる。その逆転は面白いですよね。

飯田 そうですね、『進撃の巨人』方式。

藤田 ゾンビが理性を保てるかもしれない、統率できるかもしれない、共存できるかもしれない。これが、21世紀におけるゾンビものにおける、新しい主題なんですが、本作はそれを踏まえつつ、ひっくり返しにきた感じがあります。その野心は認める。
 ゾンビと「偏見」って、結構結びつきますから。異民族や違う国の人を差別的に表象するときに「ゾンビ的に描く」という、差別の問題ですよね。その辺りを広げてきた感じが、映画版の狙いではあるかな。成功して……いたかは、結構、怪しい。

ゾンビは、世界精神!?



飯田 豚の脳みそ喰ってても信仰があれば人間と認めるか、に近い問題はヨーロッパ諸国が世界各国を植民地支配しようとしていたときにはよくあったことだろうしね。
 そのへんをあるていどなあなあにして現地化したからキリスト教は広まったわけだけど、この作品では認めなかった、と。

藤田 キリスト教周りは、映画では、ちょっと釈然としない部分ありますよね。

飯田 この映画では、ゾンビの救世主(アンチ・キリスト)が出てきて最終戦争になるとか言っていたけど、ゾンビがナポレオンの比喩なら、アンチ・キリストにあたるあいつ(とくに名前は伏す)が死んだあとに今度はナポレオン三世にあたるゾンビが出てきて、マルクスが『ブリューメル18日のクーデター』に「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」とか書くという展開が待っていると思うと胸熱ですね。ゾンビが子どもを作れるのか知らんけど……。
最終戦争をしかけるアンチキリスト=ゾンビ(≒ナポレオン)って、めっちゃヘーゲル的な歴史観だよね。ヘーゲルは「ナポレオンは馬上の世界精神だ」的なこと言ってたわけだから(ナポレオン三世についての分析にしろ、共産主義革命が起こって「人類の前史が終わる」とかいう主張にしろ、マルクスの歴史観はヘーゲルのアレンジ)。ヘーゲルの見立てでは、人類の歴史は弁証法的にある勢力と対抗する勢力とがぶつかり合って止揚することで徐々に自由を拡大してきた世界精神の運動の歴史です。その終着点に人間とゾンビの最終戦争があって、ゾンビが勝って自由な社会が訪れるんですよ!
(よくわからないひとは「ヘーゲル 弁証法」とか「ヘーゲル ナポレオン」とかで適当にググってみてください)

藤田 アンチ・キリストとゾンビたちは世界精神!?

飯田 ゾンビが最終戦争に勝って、人類の歴史が終わるんだよ。自由なゾンビ社会の到来!

藤田 ぼくはゾンビのよさって、働かなくていいところと、規律がないところと、公平なところだと思うんですよw でも、あのアンチ・キリストが革命起こして作った世界は、階層も規律があって、面倒くさそうw
 せっかくゾンビになった甲斐がないじゃないw

飯田 でも、英仏独あたりのゾンビはやっぱ規律があったほうがそれっぽいよw

藤田 ゾンビものには、永続革命っぽいニュアンスはあるんですよね、常に。もう「革命」というもの自体が古臭くてリアリティないんだけど、何故かそれでも、何度でも繰り返し起こってしまう。その、「繰り返し」をどう捉えるのかに関係してくる。……フランス革命とかの頃の、「市民」とか「農民」なんて、貴族と比べたら、見掛けとしてゾンビのようなもんだったと思うんですよね。
 しかし、ゾンビに規律があったら、夢がないよw 総力戦を戦えるってことでしょうw人間の勝ち目が、あまりにもない。
 ゾンビがヘーゲル的な世界精神の運動と関係しているんだったら、最後には、やはり、『幼年期の終り』みたいに、人類を超えて宇宙的存在へとなって行かないと…… 『幼ゾンビの終り』を……

飯田 『幼年期の終り』みたいに規律と階層ができて、進化の階梯をのぼれるゾンビとのぼれないゾンビが出てくると。「はい、このゾンビはこのランクまでしかいけません。あっちのゾンビはもっと高度な知性体になれます」みたいに。

藤田 漫画の『アイアムアヒーロー』は、実際にちょっとそっち側に行っていますけどね。あれはあれで、当然描くべきである正解という感じがします。

『戦争と平和とゾンビ』もあるのか


飯田 そういえば「最終戦争」とか言いつつ、あれフランスあたりから持ち込まれたってことになってたから、ひょっとして世界中(少なくともヨーロッパ中)めちゃくちゃなのかな? やはり『戦争と平和とゾンビ』も発生していたのだろうか……。

藤田 それは単に役者が被ってるからの連想でしょw
 でも、世界史的背景も踏まえると、面白い皮肉がいっぱい仕掛けられていますよね。ジョージ3世の精神疾患の理由とか。冒頭のカリカチュアされた絵による舞台説明で、フランス人の顔が、『ガキの使い』で時々使われるような悪意あるイラストにされていたりとか。明確に、ナポレオンや、当時の英仏の関係などを踏まえて、ネタにしちゃっている。

飯田 『高慢と偏見』も世界史もよく知らなくてもおもしろい。しかし踏まえて観ると、よりおもしろいのかもしれないですね。「ゾンビ映画か」と思って見に行かないともったいない。へたに先入観をもたないほうがいいんじゃないでしょうか。ただ、くれぐれも期待値は上げすぎずに観てください!w