中原中也といえば、多くの人が国語の教科書などに載った黒いソフト帽子をかぶりおかっぱ頭で目がくりっとした、ちょっと子供のような顔写真をよくおぼえているのではないでしょうか。いかにも私たちが「詩人」という言葉で脳裏に思い浮かべる浮世離れした妖精のようなその容貌。
そんな中原が30歳の若さで夭折したのは、昭和12年(1937年)の秋、10月22日のこと。
死後80年近くが経った今でも、その不思議な魅力をたたえた詩はなお多くの若者たちの心を捉え、アニメや漫画などにキャラ化して登場し、日本でもっとも名の知られた詩人の一人となっています。でも現代の名声と裏腹に、生涯たった二冊の詩集しか出さず、ほぼ「無名」のままに亡くなった不遇の詩人でした。


言葉をもって「名辞以前」を掴み取ろうとした詩人の宿命的苦闘

中原中也は明治40(1907)年、山口県吉敷郡山口町(現在の山口市湯田温泉)で生まれました。父は軍医で開業医でもあり実家は裕福でしたが、中学時代の落第をきっかけに京都に転向され、そこで放蕩と文学に耽溺する生活を送りました。
「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる、その手が深く感じられゐればよい。
(昭和9年『芸術論覚え書』)
彼は人間が言葉(概念)を覚える以前の原初の感動を「名辞以前」と言いあらわし、それを言葉で表すという、それ自体が背理的な表現を完成させようと生涯を賭けました。初期には既成のあらゆる価値や秩序を破壊する芸術運動ダダイズム(Dadaïsme)への傾倒としてあらわれ、やがて富永太郎との交流や宮沢賢治の詩に影響を受け、象徴主義やオノマトペ(擬音)を駆使しルフランを多用した、一読歌謡ふうにも見える独自の詩業へと結晶していきました。
ダツク ドツク ダクン
チエン ダン デン
ピー ……
フー ……
ボドー……(1924年・ダダイズムノートより)
観客様はみな鰯(いわし)
咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん (「サーカス」より)


喧嘩屋中也(ただし弱い)血風録

やがて東京に移住した中原は、小林秀雄、草野心平、大岡昇平、三好達治、壇一雄、太宰治、坂口安吾など多くの昭和前期の同時代の文人たちと交流しますが、実際に交流のあった友人たち、同業者たちの多くは中原に対して決して良い印象を持っておらず、「邪悪な男だった」「人となりを知らずに無邪気に彼の詩を愛せる読者がうらやましい」などと、さんざんにこきおろされています。また、そういわれても致し方ない行状を繰り返していたのも事実のようで、多くの作家がそれを回想として残しています。
特に檀一雄の描く中原は強烈です。
初めのうちは、太宰と中原は、いかにも睦まじ気に話し合っていたが、酔が廻るにつれて、例の凄絶な、中原の搦みになり(中略)
「何だ、おめえは。青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって。全体、おめえは何の花が好きだい?」
太宰は閉口して、泣き出しそうな顔だった。
「ええ? 何だいおめえの好きな花は」
まるで断崖から飛び降りるような思いつめた表情で、しかし甘ったるい、今にも泣き出しそうな声で、とぎれとぎれに太宰は云った。
「モ、モ、ノ、ハ、ナ」云い終って、例の愛情、不信、含羞、拒絶何とも云えないような、くしゃくしゃな悲しいうす笑いを泛べながら、しばらくじっと、中原の顔をみつめていた。
「チェッ、だからおめえは」と中原の声が、肝に顫うようだった。
そのあとの乱闘は、一体、誰が誰と組み合ったのか、その発端のいきさつが、全くわからない。(檀一雄「小説 太宰治」より)
これらの中に描出される中原の言動は、あの「あしたのジョー」のケンカ屋・矢吹ジョーか?と思わせるくらいに柄が悪く、意地悪で敵意に満ちています。同時に「青鯖が空に浮んだ」などの悪口がぽんぽんとでてくるところからも、口達者でああ言えばこう言う、彼にかなうひとがいなかったようです。そして調子に乗るとよく相手に暴力もふるっていたのですが、小柄で非力だったので多くの場合相手にされずに受け流されていたよう。大岡昇平が無抵抗主義で殴られるままにしていると「へっ、どうだ中原様の腕前は」と得意になり憎まれ口を聞くかとおもえば、たまにやりすぎて壇一雄に投げ伏せられ、「わかったよ。おめえは強え」と捨て台詞を残して逃げ帰るなど、まさにめちゃくちゃ。少しでも弱みを見せたり、見下せる相手だと見ると、徹底的に苛め抜き、絡んで相手をやり込めずにいられなかったようです。
それは裏を返せば、あけっぴろげに相手の懐にダイブする彼の人間への信頼や親愛の気持ちだったのかもしれませんし、それが詩の魅力にもつながっているのでしょうが、実際に絡まれた人たちがたまったものではない、というのもよくわかりますね。こうして「夜討ち朝駆け」「五月雨訪問」と称される仲間たちの迷惑を顧みない訪問と長時間の議論の強要、酒席の絡みで次第に孤立するようになります。


愛する「半身」の死

若い時期からの放蕩・深酒で体の地養子も壊していた中原ですが、1936年(昭和11年)、29歳のときに自身の半身のようにいつくしんでいた最愛の息子・文也をなくします。わずか二歳の生涯でした。
地球が二つに割れればいい、
そして片方は洋行(ようこう)すればいい、
すれば私はもう片方に腰掛けて
青空をばかり――(「この小児」より)
菜の花畑で眠っているのは……
菜の花畑で吹かれているのは……
赤ン坊ではないでしょうか?
(「春と赤ン坊」より)
三日三晩不眠不休で看病したという中原の嘆きはすさまじく、当時の文也を悼む詩には胸が詰まります。精神に変調をきたし、千葉市の精神病院に入院しています。
そして退院後、帰郷を決意して準備をしている矢先、結核性脳膜炎で10月22日、あっけなく亡くなりました。


中原中也と秋

中原は、秋の空をこんなふうに表しています。
秋空は鈍色にして
黒馬の瞳のひかり(「臨終」より)
また、中原中也を代表するもっとも有名な詩「ひとつのメルヘン」も舞台は秋。
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。
陽といっても、まるで硅石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。(「ひとつのメルヘン」より)
死を思わせる透明感あふれる詩です。
またそのふりそそぐ「さらさらとした陽」は、
あれはとおいい処(ところ)にあるのだけれど
おれは此処(ここ)で待っていなくてはならない(「名前なき歌」より)
とかつて謳った「名辞以前」についに到達しえた表現であるように思われませんか?
彼がなくなり、またその一つの到達点とも言える「ひとつのメルヘン」で描かれる秋の夜。厳しく、寂しく、またかわいくもある中原中也の詩集をひもといてみませんか?

参考:中原中也記念館