川口瞬さん(29)と來住友美さん(28)。真鶴出版玄関で

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 湯河原と小田原に挟まれた小さな町、神奈川県足柄下郡真鶴町。その真鶴町のある真鶴半島の中心には御林(おはやし)と呼ばれる魚付き林がこんもりと繁り、その背後にはどこまでも青い海が広がっている。集落が集中する中心部から漁港にかけての街並みは古いたたずまいを残し、家と家の間は背戸道と呼ばれる車が入れない細い路地でつながれていて趣が深い。この町に、泊まれる出版社「真鶴出版」がある。

 真鶴出版は築50年の木造日本家屋でオーナーの自宅兼事務所だ。その一室が一日一組限定のゲストルームとなっている。

 浴室の床のタイルや、ゲストルームの明かり取り窓や床の間、玄関の飾り窓など昭和感満載で、日本人なら「懐かしい」し、外国の人なら「日本らしい」と感じるだろう。希望すれば、オーナー自ら真鶴町の案内もしてくれる。ゲストルームに置かれたノートには、オーナーのホスピタリティや朝食、家のたたずまいから真鶴の魅力まで、ゲストたちの感激の声が各国語でびっしり記されている。

 オーナーは川口瞬さんと來住(きし)友美さん。2人は1年前までフィリピンにいた。帰国後の2015年6月に真鶴出版を開業したのだ。

「私(來住さん)は大学卒業後、青年海外協力隊やNGOインターンとしてタイとフィリピンで働いていました。田舎で活動することが多く、現地の人びとにとても暖かく親切にしてもらったことが心に残っていました。そこで『日本で海外の人をこんなふうに温かく迎えられたら』と思っていたんです」。

 二人は大学時代からのパートナーだ。川口さんの方は卒業後、IT会社の社員として働く傍ら仲間と「WYP」という雑誌を出版していた。來住さんがフィリピンへ行くことになったのをきっかけに、退職してフィリピンへ語学留学へ向かう。そして1年後、來住さんの任期切れに伴って二人は帰国することにしたのである。

 帰国したら雇われるのではなく仕事を自分たちで作ろう、場所も東京はスピードが速すぎるので地方がいいというのが二人の考えだった。來住さんはゲストハウス、川口さんは出版をやりたいと考えていた。

 1年間ぐらい二人で日本中を旅しながらどこに住むか決めようかとも思っていたが、友人の写真家・MOTOKOさんが「それだったら真鶴がいい」と勧めてくれたこともあり、帰国後に足を運んでみたのが真鶴との出会いだった。

「町役場職員で移住促進や町の活性化に取り組んでいる卜部(うらべ)直也さんとも知り合い、真鶴の魅力をたくさん聞きました。そのときは即決せず、徳島県の神山町や小豆島などほかの場所も見て回ったんですが、やはり最初に縁ができた真鶴に行ってみようかと考えていたときに、卜部さんからお試し移住(トライアルステイ)の話を聞き、すぐ申し込んだのです」(川口さん)。

 お試し移住は2週間。二人は住む場所の条件にしていた「空気がよいこと、食べものがおいしいこと、人が優しいこと」が真鶴にあるかを探りながら暮らしてみて、条件がぴったりだと感じた。そこでお試し移住中に不動産屋に日参し物件探しをはじめた。

 当初は宿と出版は別々にやろうとしていたのでとりあえず住む家を見つけ、ゲストハウス用の家を別に借りようとしていたのだが、なかなか物件は見つからなかった。何十軒も見て回る中、出会ったのが築51年の日本家屋。この物件が気に入った二人は、自分たちも住みながら一室に1日1組だけを大切に迎える形で宿をスタートさせることにした。住居の一部分が川口さんの事務所にもなり、「泊まれる出版社」が誕生したのである。

「今までにいろんな国の方がいらっしゃいました。最初の1年は海外の方が多かったです。同年代のゲストは『自分たちと同じぐらいの年代で地方で何か新しいことをしようとしてるなんてすごい!』『将来自分たちもこうなりたい』というような感想を言ってくれる方が多かったです。今年になってからは日本人の方が多いですね。それは『やさしいひもの』という本を出したからだと思います」。

 真鶴出版が最初に制作したのは「ノスタルジックショートジャーニー in真鶴」という、ガイドブックにはない真鶴の魅力とまち歩きマップを合体したもの。川口さん自身が、人を案内するときに自分用の地図が欲しいと、自ら歩き、感じたことをまとめたパンフレットだ。

 この制作と同時期に、真鶴町の移住促進会議に呼ばれたことが1つ転機になった。真鶴では移住促進と町の活性化に力を入れており、移住したい人向けにさまざまな制作物を配布している。それらの制作を依頼されるようになり、2016年3月には「小さな町で、仕事をつくる」という冊子を制作。「やさしいひもの」は、町の産業活性化の補助金を活用して今年制作された本である。

 この本は川口さんが営業に回り、真鶴はもちろん東京や大阪、鎌倉、京都などの書店やカフェで販売されている。手に取った人が真鶴出版を知り、宿泊できることに興味を持って訪れてくるようになったのだ。

 クチコミで名前が知られるようになり、同じく若手が移住し、地域内で新しい取り組みをはじめている小田原、熱海の人びととともにトークショーや移住促進イベントに呼ばれるようにもなった。

「地方の町で新しい何かに取り組んでいる人には親近感や仲間意識を感じます。地方っていうコミュニティーがある感じ。東京で暮らす友だちは今こんなおもしろい動きが地方であることを知らないと思う。それを伝えていくことも真鶴出版でやれたらいいなと思いますね」(川口さん)。

 二人は自然体そのものだ。多くの地方移住者は時にコミュニティーに早く入り込もうと焦りにも似た熱を発散しているが、二人は自分たちのペースでゆっくりやっていこうとしている。
 
「大学の頃は、こういう生き方って海外じゃないとできないと思ってたんです。だから日本に帰るときは崖から飛び降りるような気持ちでした。でも帰ってきてみたら、あれ?! 意外に大丈夫じゃない?! って感じですね」と來住さんは笑う。しかし、東京では無理だったかもしれない。人口が減りつつあり、移住促進に力を入れている土地だからこそ、自由さが受け入れられるということもあるのではないだろうか。

 日本全体がなかなか脱することができない、お金や名誉に縛られる呪縛は、この小さな出版社がある小さな町から解かれていくのかもしれない。(島ライター 有川美紀子)