『ビジネスに効く教養としての中国古典』(守屋洋著・プレジデント社)

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■動機や目的に踏み込めば、相手の本性が見える

孔子とか『論語』と聞くと、偉い人から堅苦しいお説教でも聞かされるのではないか、と思っている人が多いのではないか。そういう気持もわからないではない。じつは私も若いころ、そんな先入観があって、なんとなく敬して遠ざかっていた。

ところが大学に入って中国文学科を選択したことから、『論語』くらいは読んでおかなければなるまいと、半ば義務感にかられて読んでみた。読んでわかったのは、孔子は偉い人にはちがいないが、生まれも育ちもけっして恵まれたものではなく、その後の人生も苦労の連続であったということだ。いわばこの人は人生の苦労人なのである。

孔子は下積みの苦労をたっぷりなめることによって、人間を見る目も磨いていった。そういう意味では、希に見る人間通と言ってよいかもしれない。

「その以(も)ってする所を視(み)、その由(よ)る所を視、その安んずる所を察すれば、人焉(いずく)んぞカク(かく)さんやや、人焉んぞカクさんや」(為政篇)(カク=广に叟)

孔子の人間観察法である。人を見るのに、現在の行動を観察するばかりでなく、その動機は何か、また、目的は何か、そこまで突っ込んで観察する。そうすれば、どんな相手でも自分の本性を隠しきれなくなるというのだ。

「君子に侍(じ)するに三愆(さんけん)あり。言(げん)未(いま)だこれに及ばずして言う、これを躁(そう)と謂(い)う。言これに及びて言わざる、これを隠(いん)と謂う。未だ顔色(がんしょく)を見ずして言う、これを瞽(こ)と謂う」(季(り)氏(し)篇)

目上の者に仕える場合、してはならないことが三つある。それは他でもない、軽はずみ、隠し立て、目が見えないことである。軽はずみとは、相手がまだ話題にしないことまで先取りして言うこと。隠し立てとは、意見を求められても答えようとしないこと。目が見えないとは、相手の顔色も読まないでまくしたてること。

『論語』にはこういうアドバイスが随所にちりばめられている。人間学の教科書として、まさに打って付けだと言ってよい。

■地位のないことを気に病むな。実力を身につけよ

孔子は若いときから弟子をとって教育にあたっている。声望が高まるにつれて弟子の数もふえていったらしい。孔子塾は、一言でいえば、「君子」の養成機関であった。孔子はみずからが年老いるにつれてこれに力を入れ、若い人たちの教育に情熱を傾けていった。

「後生(こうせい)畏(おそ)るべし。焉(いずく)んぞ来(らい)者(しゃ)の今に如(し)かざるを知らんや」(子(し)罕(かん)篇)

若いということは、それだけで豊かな可能性を秘めている。これからの人たちが今の人々に劣っているとは、けっして言えないというのだ。若い世代に大きな期待をかけていたのである。

孔子がそういう若い弟子たちにいちばん望んだのは、「やる気を出せ」ということであった。そういう意味のことを『論語』のなかで繰り返し語っている。たとえばこうである。

「これを如何せん、これを如何せんと曰(い)わざる者は、吾(われ)これを如何ともする末(な)きのみ」(衛霊公(えいれいこう)篇)

どうしたらよいか、どうしたらよいかと苦しんでいる者でなかったら、私だってどうしてやることもできない、というのだ。

また、孔子はこうも語っている。

「位なきを患(うれ)えず、立つ所以(ゆえん)を患う。己を知るなきを患えず、知らるべきを為(な)さんことを求むるなり」(里仁(りじん)篇)

地位のないことを気に病む必要はない。それよりも、実力を身につけることが肝心だ。人に認めてもらえないことを気に病む必要はない。それよりも、認めてもらえるような仕事をすることが先決だ、というのである。

これらのアドバイスはいずれも孔子自身が心がけたことであるし、実践したことでもあった。だから弟子たちとしても素直に耳を傾けることができたのではないか。

※本連載は書籍『ビジネスに効く教養としての中国古典』(守屋洋 著)からの抜粋です。

(守屋洋=文)