『枕草子』の作者として広く知られる清少納言ですが、彼女がどのような人物だったかについてはさまざまな説があるようです。無料メルマガ『おもしろい京都案内』では、清少納言が大納言・藤原行成と交わした句を取り上げ、彼女の常人離れした教養の高さを詳しく分析しています。

女流作家「清少納言」の教養と知識の高さ

平安時代を代表する文化人に清少納言という女性がいます。彼女が書いた『枕草子』は、『徒然草』『方丈記』と並んで三代随筆のひとつに数えられていますね。清少納言は、宮中で一条天皇の中宮・定子(ていし)に仕えた女性です。彼女は宮中に仕えていたということから贅沢な暮らしをしていたと伝えられていたりもします。そして才色兼備で、その賢さをひけらかすような面があって、嫌味な女性だったという噂があります。実際に清少納言が贅沢をしていたのか、嫌味な女性だったのかわかりませんが、彼女の晩年はあまり派手ではなかったようです。

清少納言は、中宮・定子が第2子を出産した後に亡くなったことを機に宮仕えをやめています。定子の亡骸は、東山の鳥辺野(とりべの)に埋葬されたので清少納言はその近くの東山月輪に隠棲しました。晩年の清少納言は、出家して庵に住み定子の冥福を祈り続けたそうです。このような彼女の晩年の暮らしは清少納言が派手好きであったり、嫌味な女性だったとは思えません。

さて、そんな彼女が残した有名な一句があります。百人一首にも撰ばれているものなので皆さんもかるたなどで聞いたことがあるかもしれません。

夜をこめて 鳥の空音(そらね)は 謀(はか)るとも よに逢坂(あふさか)の 関は許(ゆる)さじ

この句には彼女の溢れんばかりの才気が現れています。技法のひとつである語呂合わせが沢山含まれているのです。

現代語訳はこんな感じになります。

夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、函谷関ならともかくこの逢坂の関は決して許しませんよ(色々とだまそうとしても、私はあなたに決して逢いませんよ)。

という意味です。詳しく見ていきましょう。

「夜をこめて」は、(夜がまだ明けないうちに)という意味になります。「鳥の空音(そらね)は」鳥はにわとりで、「空音」は(鳴き真似)のことです。「謀(はか)るとも」の「はかる」は(だます)という意味です。「とも」は(〜しても)。

「鶏の鳴き真似の謀ごと」とは、古代中国の史記の中のエピソードを指しています。これは後で説明しますが、この辺りの歴史もきちんと勉強して知った上でこのような歌を詠んでいるところに教養の深さを感じます。

「よに逢坂(あふさか)の関は許(ゆる)さじ」

「よに」は(決して)です。「逢坂の関」は男女が夜に逢って過ごす「逢ふ」とを掛けた掛詞です。「逢坂の関を通るのは許さない」という意味と「あなたが自分に逢いに来るのは許さない」という意味を掛けています。清少納言の深い教養と頭の良さが分かる一句です。

状況を説明しますと…。

ある夜、清少納言のもとへやって来ていた大納言・藤原行成(ゆきなり)は、宮中に用があると言って早々と帰ってしまいました。いわゆる逢瀬を重ねていたのです。この藤原行成という人物は時の権力者としても有名ですが同時に相当な文化人です。平安時代の三蹟(さんせき)の1人です。三蹟というのは能書家で、筆が達筆な代表的な3人のうちの1人です。当時までは漢字が主流だったのですがこのころから仮名文字がもちいられるようになり、彼はとても美しい仮名文字を残しています。現存するものは本能寺に残されています(本能寺切)。実際に見るととても柔らかくて「書」を芸術の域に引き上げた人物はまさに行成ではないかと思うぐらいです。その意味でも彼は大納言まで上り詰めたと言うことだけでなく書家として、文化人としても大変有名だということです。

話をもとに戻します。清少納言の元に出向いて楽しく話をしていた行成は早々と帰ってしまいました。翌朝、「鶏の鳴き声にせかされてしまって」と言い訳の文を送りました。受け取った清少納言は「うそおっしゃい。中国の函谷関(かんこくかん)の故事のような鶏の空鳴きでしょう」と答えているのです。この「函谷関の故事」というのは、中国の史記にある孟嘗君(もうしょうくん)の話です。

孟嘗君は古代中国の秦の国に入って捕まってしまいました。そこから逃げるとき、朝一の鶏の鳴き声がするまで開かない函谷関の関所を部下に鶏の鳴き真似をさせて開けさせたという話です。この歴史的な史実を知らないとこの2人のやり取りは理解出来ないのです。逆に言うとそのぐらいこの2人は高い教養を持った者同士だったということです。ちなみにカンの良い方だったらお気づきだと思いますが、この函谷関の話はまさに祇園祭の函谷鉾の由来でもあります。

話がそれましたが、清少納言は「どうせあなたの言い訳でしょう」と言いたかったのです。それに対して行成は「関は関でも、あなたに逢いたい逢坂の関ですよ」と弁解します。

清少納言のこの一句はその行成の歌に対して返した歌だったのです。「鶏の鳴き真似でごまかそうとも、この逢坂の関は絶対開きませんよ(あなたには絶対逢ってあげませんよ)」という意味です。前の夜に話の途中で宮中の用事を言い訳に途中で清少納言を置いて帰ってしまった行成に対してちょっと怒っているのかも知れません。

即座にこれだけの教養を盛り込んだ歌を返すとは、さすが清少納言といったところです。このほんの一句からずば抜けた知性を感じさせますが、男の立場から言えばさすがの時の大納言もタジタジではないでしょうか。

一条天皇の時代は藤原道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権力が最盛期に達し、摂関政治の栄華の極みに到達した時代です。

この藤原道隆こそが一条天皇の中宮・定子の父であり、影の実力者であり当時の最高権力者です。そのような宮廷が最高に華やかなりしころにその中心に一番近いところで生きた清少納言。彼女ほどの教養と女性としての自信がなければ時の大納言・行成にあのような一句を詠むようなことはなかったでしょう。

最後に逢坂関は、東海道で京都への東からの入り口とされ古くから交通の要所だったそうです。8世紀の終わりにはすでに関所が置かれていたと伝わっています。

現在、逢坂の関の跡は滋賀県大津市にあり、京阪電車京津線大谷駅下車2分ほどのところにあります。清少納言が詠んだこの有名な歌は歌碑に刻まれていて彼女が静かに眠る近くにある泉涌寺(せんにゅうじ)に建てられています。

泉涌寺

泉涌寺は、境内の一角に清泉が湧き出たことに由来しています。1242年、四条天皇の御陵が作られてから江戸時代初期の後水尾天皇など歴代天皇の御陵(月輪陵・後月輪陵)が築かれています。このように泉涌寺は皇室の菩提寺であることから御寺(みてら)とも呼ばれています。

泉涌寺の大門からすぐ右へ進むと日本最古の写経道場・雲龍院があります。大門をくぐって正面に見える仏殿を見下ろしながらそのまま真っ直ぐ下っていく感覚は他にない新鮮な感じを受けます。大門のすぐ左脇の楊貴妃観音堂には、恋愛にご利益がある楊貴妃観音像が祀られていて女性に人気があります。毎年3月14日〜3月16日には日本最大の涅槃図が一般公開される涅槃会が行われます。

いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

image by: Wikimedia Commons

 

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出典元:まぐまぐニュース!