スイートポテト、焼き芋、大学芋、干し芋、きんとんなど、おやつにもおかずにも、いろいろ使えるサツマイモ。甘くておいしくい、秋を代表する食材のひとつです。
でも、サツマイモの実力はただおいしいだけではありません。栽培もしやすく、やせた土地でも育つサツマイモは、歴史の中で、これまで何度となく多くの人々の命を救ってきた、日本人の命の恩人ともいえるすごい食材なのです。今回は、今が旬のサツマイモについて、ご説明します。

秋の味覚の代表ともいえるサツマイモ。飢饉のたびに人々を飢えから救ってきた、すぐれた非常食だった


飢饉から人々を救ったサツマイモ

意外に思われるかもしれませんが、サツマイモはもともと、凶作や飢饉(ききん)に備えて育てられる救荒作物として、その栽培が広がりました。
江戸時代の三大飢饉といわれる「享保の大飢饉」「天明の大飢饉」「天保の大飢饉」、また最近では第二次世界大戦中と戦後の食糧難の時代など、サツマイモは多くの人々の命を救いました。
享保の大飢饉の際、西日本でサツマイモを栽培していた地域では、大きな被害を免れました。そこで幕府は青木昆陽(あおきこんよう)に命じて、関東地方でサツマイモを試作させました。
青木昆陽は、小石川薬園(小石川植物園)や、下総加村(千葉県千葉市)、上総不動堂村(千葉県九十九里町)などで試作を重ね、その栽培方法などを記した『蕃薯考』を八代将軍吉宗に献上し、関東地方でも栽培が広がったと言われています。青木昆陽は自分のお墓を生前から建てて、そこに自ら希望して「甘藷先生」と彫ったそうです。
また、島根県太田市の石見銀山などで代官を務めた井戸平左衛門も、享保の大飢饉の際にサツマイモの栽培の基礎を作り、人々を飢えから救いました。その在職はたった2年間と短かったのですが、その功績から「イモ代官」と呼ばれて今も人々に親しまれています。
ただ、井戸平左衛門は、人々を救うため年貢を少なくしたり、幕府に背いて年貢として納められた蔵米を飢えた人々に施したりしたため、その責任を取って切腹したとも伝えられています。

小石川植物園にある甘藷試作跡の碑

小石川植物園にある甘藷試作跡の碑


サツマイモの名前いろいろ

中南米が原産のサツマイモは、日本には17世紀前半、江戸時代の初頭に伝わりました。
サツマイモにはたくさんの呼び名があります。その呼び名をたどっていくと、どのように日本国内でサツマイモが広まっていったのかがわかります。
まず、青木昆陽が種芋を取り寄せた鹿児島県が、当時は薩摩藩と呼ばれていました。そのため、「薩摩芋」と呼ばれ、今でもその名前が一般的に使われています。
しかし、薩摩藩の中では、琉球(沖縄県)から渡ってきたイモ、「琉球芋」と呼ばれており、さらに琉球では、唐(から。当時の中国の一般的な呼称)から渡ってきたので、「唐芋(からいも)」といわれていました。
そのほかにも、その色から「赤イモ」、甘い味から「甘藷(かんしょ)」という名前もあります。


「十三里」ってどういう意味?

さらに、サツマイモのことを「十三里」と呼ぶこともあります。
庶民の間に広く普及したサツマイモは、蒸しイモ、茶巾イモなどさまざまな調理方法が生まれ、唐茄子(とうなす。かぼちゃのこと)と並んで、女性の好きな食べ物と言われるようになりました。
寛政年間(1789〜1801年)には、「八里半」と書かれた行燈(あんどん)をかけた焼き芋屋も登場します。八里半というのは、「九里(くり)」に近い、つまり「栗」に近いという言葉遊びで、栗のようにおいしい味、という意味です。
しかしその後、対抗して「十三里」と書いた行燈を出す焼き芋屋が登場しました。
「十三里」というのは、おいしいサツマイモの産地として知られていた川越までの距離が江戸からちょうど十三里(約52キロメートル)だったことと、「九里」と「四里」を足した合計「十三里」をかけて、「栗(九里)より(四里)うまい」という意味を込めたと言われています。このしゃれが広まり、サツマイモのことを十三里というようになったそうです。

我が家でも人気のサツマイモですが、ただおいしいだけじゃなくて、もしもの時の大切な食料でもあったんですね。
ちなみに、あさって10月13日は「さつま芋の日」。旬の季節である10月に、「十三里」をかけて、この日が選ばれたそうです。

参考文献:『たべもの語源辞典』東京堂出版、『日本食文化人物事典』筑摩書房、『日本民俗大辞典』吉川弘文館、『たべもの日本史総覧』新人物往来社、『食の文化を知る事典』東京堂出版

おいしいサツマイモの産地として江戸時代から知られていた川越

おいしいサツマイモの産地として江戸時代から知られていた川越