夏の気温からいきなり肌寒い日々です。体調管理をしっかりいたしましょう。
今日10月12日は芭蕉忌。時雨の句を多く詠んだことから「時雨忌」ともいわれます。
日本人なら知らない人はいない俳聖とまでいわれる松尾芭蕉。いまから300年以上昔に作られた作品ですが現代の私たちが読んでも、芭蕉の思いが伝わってきて感動する作品が多くあります。いつの時代も古びることなく生きた俳句を作り続けた芭蕉の生涯を少し覗いてみましょう。

伊賀上野 俳聖殿


芭蕉の故郷は伊賀上野。江戸での成功。旅に徹した俳聖

松尾芭蕉は1644年伊賀上野で準士分待遇の農民の子として生まれます。幼名金作、元服後は忠右衛門宗房。俳句との出会いは19歳の時でした。津藩の侍大将藤堂新七郎家に召し抱えられ、嫡男良忠の台所用人として仕えます。良忠は宗房より2歳年上。蝉吟(せんぎん)という俳号を持ち、京都の北村季吟を師として貞門俳諧を学んでいました。この良忠の手ほどきにより宗房も俳諧をたしなみます。芭蕉が宗房だった22歳の時の句が残っています。
「春やこし年や行きけん小晦日」  宗房
残念なことに忠義は宗房が23歳の時に亡くなります。主君を亡くした宗房は29歳で江戸に出るまでの消息はさだかではありませんが、京都の北村季吟を頼って学問に打ち込んでいたようです。この時期俳人として成功するための教養を一生懸命身につけていたようです。それは漢詩、和歌、禅と幅広かったといわれています。
29歳の時初めての俳諧集「貝おほひ」を故郷の上野天満宮に奉納します。これは伊賀上野の36人の俳人の句60句を左右30番の発句にして、芭焦が判詞を書き加えたものです。判詞とは左右に分けた句のどちらが良い句かと。優劣をつけるもので、この部分が俳諧の手引き書となるわけです。そこで芭蕉はこの「貝おほい」を懐に江戸での出版を目ざして伊賀上野を離れるのです。
江戸では日本橋に居を定めます。ここで生涯のパトロン魚商杉山杉風に出会います。日本橋は江戸経済の中心地であり、俳諧も盛んな土地。大旦那衆を弟子に持った芭蕉は順風満帆のようですが、俳句の師匠だけでは生活が苦しかったらしく、4年近く神田上水の水道工事の現場監督をしていたということです。なかなか苦労人ですね。
しかし当時の俳壇は、芭蕉が目指した静寂の中の自然美や、李白や杜甫が漢詩で描く孤高や魂の救済などを詠み込んだ世界ではなく、機知に富んだ滑稽を派手に競う句が持てはやされていました。芭蕉は「笑い」や「楽しさ」を追求する俳句ではなく、自然や人生を素直に読む句へと。俳諧を深化させていきます。
芭蕉は37歳のとき日本橋を離れ、深川に草庵を結び隠棲します。芭蕉はこの草庵を杜甫の詩「門ニハ泊ス東海万里の船」から「泊船堂」と名づけています。後に弟子が芭蕉を一株この地に植えて、それが軒端を覆うくらいに繁りやがて芭蕉庵と呼ぶようになったそうです。俳号も芭蕉と名乗るようになります。
41歳で『野ざらし紀行』の旅にでます。「野ざらし」とは野に捨てた髑髏のことです。芭蕉はのたれ死にを覚悟して旅にでました。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」
「道のべの木槿(むくげ)は馬にくはれけり」
「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」
「死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮」
『野ざらし紀行』は芭蕉の死後、弟子たちによって版本として刊行されました。本を出版できる財力と人脈のある弟子に恵まれていたことがわかります。
このあと芭蕉はさらに旅を続けます。44歳で『かしま紀行』、東海道を伊賀上野へ『笈の小文』。45歳で『更級紀行』そして最後に46歳で『奥の細道』に旅立ちます。曾良を伴い深川を3月に出立しました。
「行く春や鳥啼き魚の目に泪」 深川
「田一枚植て立去る柳かな」  那須 遊行柳
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」 立石寺
「五月雨の降のこしてや光堂」 平泉
「荒海や佐渡によこたふ天河」 越後路
「石山の石より白し秋の風」  那谷寺
「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」 大垣
8月に美濃大垣で終点となります。その後伊賀上野に帰りますが、病に苦しみます。それでも51歳で『奥の細道』を完成させます。
病をおして伊賀上野から大阪に旅立ち、南御堂前、花屋二右衛門方で10月12日に亡くなります。
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
旅の途中、芭蕉最後の句になりました。10月8日、病の中、弟子に墨をすらせて書き取ったそうです。
お墓は滋賀県膳所の琵琶湖畔にある義仲寺です。「私を木曽義仲公の側に葬って欲しい」という遺言に従って、亡くなった夜に弟子10人で亡骸を川舟に乗せ、淀川を上って翌日に義仲寺に到着。14日夜に門弟80人が見守る中、義仲の墓の隣に埋葬されたそうです。芭蕉は最後まで多くのに弟子に囲まれていました。

芭蕉が眠っています

芭蕉が眠っています


良い俳句をつくるには理論と法則が必要です

「古池や蛙飛び込む水の音」
「梅が香にのっと日の出る山路かな」
「秋深き隣は何をする人ぞ」
今みても芭蕉のユーモアセンスが光る句だと思いませんか?
芭蕉の俳諧の理念として有名なのが「不易流行」です。「不易」は時を越えて変わらない真理。「流行」は時代や環境に即して変えていかなければならないという法則。良い俳句を作るためにはこの二つが大切だとしています。つまり、普遍的な真理である基礎をまずしっかり学び、その上で時代の変化にあった新しさも常に取り入れないと平凡な句になってしまいますよ。ということですね。
でもそれだけではありません。根本に「風雅の誠」がなければ良い俳句になりませんよ、と言っています。
つまり美の本質を持っている伝統です。中国の杜甫や李白の詩、日本の和歌、芭蕉は特に西行に傾倒していました。このような伝統的な美に根ざすことで、滑稽になり過ぎていた「俳諧」を「芸術」に高めたのです。
芭蕉の俳句が描く世界は情景、音、匂、色表情がとても豊か。自ら打ち立てた理論に則って常に推敲を怠らなかったそうです。徹底した努力の人でもあったことがわかります。
日常のことばで自然や人生を探求し、たった17音に、誰もがわかる俳句をつくる芭蕉。これからも永遠に読み継がれ輝くことでしょう。
秋の夜長、あなたも17音に季節を載せて俳句をひとつ、いかがですか?

奥の細道スタート

奥の細道スタート


俳句? 連歌? 俳諧? 発句? って混乱しませんか?

整理しておきましょう。
私たちは(五・七・五)で詠まれた物を「俳句」といっていますが、これは明治時代に正岡子規がつけた名前です。「短歌」は上の句(五・七・五)と下の句(七・七)からできています。
「長歌」(五・七/五・七/五・七/・・・/五・七・七)から最初の(五・七)と最後の(五・七・七)を合わせたものです。
次に連歌は長句(五・七・五)と短句(七・七)を最低二人以上で繰り返して歌をつなげていくものです。
この連歌の最初の長句(五・七・五)が発句、続いて第一句、第二句と続き最後の(五・七・五)が挙げ句となります。この「挙げ句」は今でも「挙げ句の果てに・・・」等と日常に使われていますが、元はここだったんですね。
最後に「俳諧」は「たわむれ」や「おどけた」、「滑稽な」という意味です。短歌は貴族のたしなみとして大いに作られていましたが、庶民には難しすぎました。そこで身近なことを面白おかしく詠む連歌が庶民に広がり「俳諧連歌」になりました。「俳諧連歌」の第一句を発句として独立させて楽しむようになったのです。これが「俳諧の発句」です。現代では「俳諧の発句」も「俳句」と呼ぶようになりました。