「守るべき」か「解体すべき」か。戦後建築と祭りの価値:連載「21世紀の民俗学」(9)

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いま消えつつある「戦後建築」。モダニズム建築が、文化財として保護すべきかという議論に晒されている。祭りなどの伝統行事でもそれは同じである。民俗学者・畑中章宏は、「機能美」の有無こそが継承と破壊の分水嶺だという。

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消えてゆく「戦後建築」

最近何回か続けて、「景観」や「伝統」、あるいは「地域文化」をテーマについて語ってきた。今回もその延長線上で、文化財の保存・保護、継承の問題を考えてみたいと思う。そこで具体例としてまず取り上げたいのが、20世紀後半に建てられた日本の「戦後建築」のことである。

この数年、戦後建築の取り壊しが検討されるたび、それに対して保存を求める声が上がることがある。ごく最近の例では、村野藤吾(代表作「宇部市渡辺翁記念会館」「広島世界平和祈念聖堂」「八ヶ岳美術館」ほか)が設計した「八幡市民会館」、白井晟一(代表作「松井田町役場」「親和銀行本店」「ノアビル」「松濤美術館」ほか)設計による旧「雄勝町役場」、菊竹清訓(代表作「東光園」「エキスポタワー」「江戸東京博物館」ほか)の出雲大社「庁の舎」などをめぐって、保存と活用が論議されてきた。

「雄勝町役場」(1956年造)、現在の秋田県湯沢市役所雄勝庁舎にかんしては「白井晟一 湯沢・雄勝6作品群を遺す会」が、解体の方針に対し、湯沢市に保存と利活用を求めた計画書を提出していた。旧雄勝町役場は「建築当初は1階より2階の床面積が広く、横からの外観はT字形だった。増改築が繰り返されたが、2階のバルコニーや旧議場の古代ギリシャ風の柱などにデザインの名残がある」とされる(「河北新報オンラインニュース」2016年08月23日より)。しかし湯沢市は、資金確保策や耐震工事計画に不備があり、譲渡条件を満たしていないと判断して、12月にも解体工事を始める予定だという(余談だが、「6作品群を遺す会」の6作品のなかには、卓球の福原愛選手が練習場として使っていた旧・秋の宮村役場も含まれている)。

「八幡市民会館」(1958年造)も、老朽化に伴う改修費用の増加から取り壊し案が予定されている。地下1階地上4階の建物は茶褐色のタイル張りで、「モダンと和風が融合した村野作品ならではの独特の外観は、戦後復興の象徴として市民に親しまれた」(『毎日新聞』2016年6月20日)。村野が設計した、隣接する「八幡図書館」(55年造)とともに、歴史的建造物として写真撮影に訪れる人も多いという。村野藤吾は佐賀県唐津市出身で、北九州市で育ち、八幡製鉄所に勤務したこともあるから、地域にとってゆかりの深い建築家でもある。

この市民会館については、地元経済界などでつくるまちづくり団体が、地元企業に改修費などの出資を要請し、現代美術館として整備する再生案が浮上している。「現代アートは近年、高い集客力に注目が集まっており、実現すれば大きな話題を呼びそうだ。耐震補強やバリアフリー化の工事を経て、2019年春のオープンを予定している」(同前)。村野の建築では、鳥取県の「米子市公会堂」(1958年造)は保存運動が成果を上げ、耐震補強工事のうえ改修・活用されている。また東京都千代田区の旧「日本興業銀行本店ビル」(みずほ銀行前本店ビル、74年造)は、16年度中に解体される予定だ。

出雲大社の社務所だった「庁の舎」(1963年)は、「鉄筋コンクリート製だが繊細な和風の趣があり、木造の社殿が立ち並ぶ境内に調和している」(「産経WEST」2016年9月14日)とされるが、現在は使用されておらず、18年ごろまでに解体する方針だった。しかし、ユネスコ(国連教育科学文化機関)諮問機関であるイコモス(国際記念物遺跡会議)が、保全を求める声明を出した。これに対して出雲大社は、「現時点では取り壊し計画を変更する考えはない」という。

白井晟一「松井田町役場」2

モニュメントとしての「物語」

いま各地で起こっているのは、こうした「戦後建築」を「文化財」と見なしうるかという問題である。

戦後建築で国の重要文化財の指定を受けているのは、2006年に同時に指定された丹下健三の「広島平和記念資料館」(1955年造)と村野藤吾の「世界平和記念聖堂」(54年造)など4件。今年7月、東京上野の「国立西洋美術館本館」が「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献」の構成資産のひとつとして、世界文化遺産に登録されたのは、記憶に新しい。

戦後建築の保存を求める際に、設計者が、「戦後日本を代表する建築家」であるとか、「国際的に著名な建築家」と説明されることが多い。しかし、保存運動が共感を呼ぶとすれば、その建築がこれまで、地域のシンボルとして認識されてきたかによるだろう。

大阪市北区の「大阪中央郵便局」(吉田鉄郎・逓信省営繕課設計、1939年造)は、モダニズ厶建築の代表作として保存運動が起こったものの、解体が決まった。保存運動の過程で、わたしは、梅田の駅前に立つこの建築のモニュメントとして、あるいは機能としての「物語」を聞いた記憶がほとんどない。

村野藤吾の「八幡市民会館・図書館」は残念ながら観に行ったことはないけれど、白井晟一の「雄勝町役場」も、菊竹清訓の「庁の舎」も観たことがある。前者は雑誌の建築特集の撮影取材、後者は出雲神話の取材の打ち合わせのためだった。デザインはともかく、どちらの建物にもわたしは、「ずいぶん、くたびれている」という印象を抱いた(ちなみにわたし自身は、20世紀の日本の建築家のなかでは、村野藤吾と白井晟一を敬愛している。村野の建築には10代のころから親しみ、白井晟一に関しては展覧会の図録を編集した)。

どんな建物でも、竣工当初は外観・内装が真新しいだけではなく、スタイルにおいても、デザインにおいても“新しかった”に違いない。しかし、戦後建築の、コンクリート造ならではの「経年劣化」による「古ぼけた」感じが、市民には文化財として理解しにくいのではないかと思う。わたしたちは、モダニズム建築の「良さ」や、戦後建築の魅力を教えてもらう機会がなかったのだから。

忘れられた祭りの「機能」

歴史的なものが「文化財化する」か、どうかの分かれ目があると思う。建築にかぎらずどんなのものでも、つくられた瞬間から文化財になるわけではない。

「民俗文化財」としての地域の伝統行事が、少子化や高齢化による後継者不足で、存続の危機に瀕しているという問題も大きい。またいっぽうで、観光振興を旗印に、伝統行事と地域活性化を結びつける動きも少なくない。伝統行事に関して、わたしはこんな経験をしたことがある。

栃木県の某所で行なわれる「悪魔祓い」の行事を観に行った帰り道、1時間に1本か2本という電車を待っていると、60代前半ぐらいの地元の女性に話しかけられたことがある。「祭のせいで、うるさくてかなわない。祭に興味もないし、気持ち悪い」…。

茨城県のある山で「立木仏」を観たあと、バス停が見つからず困っていた。信号待ちの車の運転手に声を掛けたところ、駅まで行くからと助手席に乗せてもらった。30代後半ぐらいの主婦で、地域の文化についてもとても詳しい人だったが、年に一度の祭は「正直、迷惑」だという。「忙しい時期に何日も駆り出されるので、できれば参加したくない」…。

「祭」や「芸能」をはじめ、共同体単位の「年中行事」は、豊作や大漁を祈願し、あるいは村境を越えて厄災が入ってこないように阻止するのが目的だった。こうした人々の行為と感情は、信仰であるとともに、繁栄と防災の目的と機能によって裏づけされていたはずである。だから、いまではわからなくなっていても、原因や理由のない祭は存在しない。こういった行事に美しさが伴っているとすれば、それは「機能美」にほかならないのだ。

篠ノ井「ドンド焼き」

「歳時記」をもとにした祭が、日本列島の各地で、現在も行われている。PHOTOGRAPH BY AKIHIRO HATANAKA

「機能美」のゆくえ

しかし、機能によって成り立ち存続してきたものは、使用目的が失われたとき、その役目について検討されざるを得ない。共同体に成員にとって重要だった「歳時記」に伴う共同作業が失われ、共有意識が薄らいだとき、祭りは機能的な意味を失ってしまう。そうして、経済的な側面も考慮したうえで、役割を終えたと判断されときには、消え去る運命を免れることはできないのだ。それでもそこに「美」が具わっていたとき、保存と継承に向けた運動の契機が生まれる。しかしそれが「美」であると、いったいだれが判断できるだろうか。

すべての文化財を保護し、保存し、継承していくことなどとてもできない。地域の重荷になるのであれば消え去ってしまうのも、やむをえないことだろう。近代建築、戦後建築にかぎっていえば、「記憶」や「主観」、そして「物語」に依存するしかないとわたしは思う。

わたしにとって、村野藤吾が設計した「読売会館」(1957年造)は、非常に思い入れの深い建物である。「ビックカメラ有楽町店本館」が入っているあの商業ビルを、戦後建築の傑作だと思ってはみないし、カメラや電化製品を購入するとき、村野の存在を意識することもないだろう。しかし、村野が設計した建物の、あの「使われている」感じがとても好きなのだ。だからあそこに行くたび幸せな気分になるし、有楽町の駅からガラスブロック貼りの壁面を見るたび、東京を感じてしまう。『シン・ゴジラ』を観たときも、あの建物がどうなるか気が気でなかった…。

文化財の価値を判定する客観的な基準などないと思う。あるいは、生きている人間には判定できないのではないか。「記憶」や「物語」という面では、「死者を巻き込んだ民意」にでもすがるしかないようにすら思うのである。

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