曼陀羅山寂庵公式サイトより

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 作家の瀬戸内寂聴の発言が大きな批判を浴びている。6日、日本弁護士連合会(日弁連)が福井市内で開催した死刑制度存廃をめぐるシンポジウムにビデオメッセージを寄せ、死刑制度を批判したうえで、このように述べたためだ。

「人間が人間の罪を決めることは難しい。日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」
「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」

 この「殺したがるばかども」発言について、会場にいた全国犯罪被害者の会(あすの会)のメンバーや犯罪被害者支援に取り組む弁護士らが「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」と反発。これを受け、日弁連も翌日の人権擁護大会のなかで「犯罪被害者への配慮がなかったことは、おわび申し上げる」と謝罪することになった。そして、ネットでは、寂聴に対するこんな非難、悪罵が連ねられている。

〈もし自分が被害者や被害者の家族や関係者だったら同じことを言えるのかね?〉
〈殺したがるばかどもは加害者の方じゃボケ左翼老人め。お前こそ、はよう死ね〉
〈加害者の人権は尊重するが被害者とその家族の人権は平気で踏み躙る。反日気狂い左翼の死に損ない〉

 しかし、寂聴の発言は、本当にここまで糾弾され、日弁連が謝罪しなければならないようなことなのだろうか。

 そもそも、寂聴は被害者遺族を「ばか」よばわりしたしたわけではなく、死刑制度を維持しようとする政府や権力を批判したにすぎない。そして、寂聴の「人間が人間を殺すことは一番野蛮」「日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」という死刑制度批判は、表現が情緒的ではあるが、本質をついている。

 なぜなら、死刑は誰がどう見ても「国家による殺人」であり、民主主義国家の理念とは相容れない制度だからだ。

 事実、世界を見渡しても、多くの国で死刑制度は廃止されている。国際NGOアムネスティによれば、2015年末時点で、全犯罪に対して死刑を廃止した国は102カ国、執行を停止した事実上の死刑撤廃国も含めれば140カ国にのぼる。
これは国連加盟国の3分の2を超えるものだ。

 先進国では、この傾向はさらに顕著だ。死刑制度撤廃を加盟条件にしているEU加盟国はもちろん、スイス、ノルウェー、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、メキシコ、トルコ、イスラエル......。実は、OECD参加35カ国の中で、死刑制度を存続させているのは、アメリカと韓国、日本のみ。しかも、アメリカはこの10年で死刑執行したのはテキサス州など、一部の州に限られている。韓国は1998年の金大中政権発足以降刑が執行されておらず、2007年にはアムネスティに事実上の死刑廃止国と認定されている。あのロシアでさえ、死刑執行は1996年を最後に停止し、その後憲法裁判所も死刑を禁止しており事実上廃止されている。いってみれば、国家として死刑を積極的に執行している先進国は、日本だけなのである。

 そして、日本と同じように、昨年死刑を執行した国は25カ国程度あるが、そこには、中国、イラン、パキスタン、サウジアラビア、インド、北朝鮮(非公開)などの名前が並んでいる。

 これだけをとっても、いかに、死刑制度というのが民主主義に反する制度であるかがよくわかるだろう。事実、死刑制度を廃止する国、死刑執行を停止する国の数、国連の「死刑の廃止を視野に入れた死刑執行の停止」を求める決議への賛成国は年々増加している。

 ところが、日本では全く逆の現象が起きている。メディアや世論の「死刑制度」を求める声がどんどん大きくなっているのだ。

 いったいなぜか。死刑制度を支持する人たちがまず口にするのは、犯罪が凶悪化しており、抑止のために必要という論理だ。

 しかし、これはデマに近い。というのも、この20年間の犯罪統計を見れば、凶悪犯罪や殺人事件は明らかに減少傾向にあるからだ。増加しているように見えるのは、厳罰化や予算拡大を狙う法務当局・警察の情報操作と、それを受けたマスコミの過熱報道が原因だろう。

 そもそも、「死刑があればそれを恐れて凶悪犯罪が減少する」という"抑止効果論"も、「根拠がない」というのが世界の共通認識だ。たとえば、1981年に死刑を廃止したフランスの統計でも廃止前後で殺人発生率に大きな変化はなく、1997年12月に1日で23人が処刑された韓国においてもやはりその前後で殺人発生率に違いはなかったという調査報告がなされている。他方、人口構成比などの点でよく似た社会といわれるアメリカとカナダを比較すると、死刑制度を廃止して40年が経つカナダの方が殺人率は低いというデータが現れている。

 だが、最近の日本で死刑支持が広がっている背景には、もっと大きな要因がある。それこそが「被害者遺族の感情を考えれば死刑は当然」という声の存在だ。この声は今の日本社会では絶対的な正義とされ、死刑廃止論を唱えようものなら、今回、瀬戸内寂聴に向けられたのと同じように必ず「被害者の気持ちをふみにじるものだ」「自分が被害者の親だったら同じことがいえるのか」という批判が浴びせられる。

 しかし、この主張こそ、おかしいと言わざるをえない。もちろん、愛する人を奪われた被害者遺族の怒りと悲しみは当然だし、被害者が厳罰を求める気持ちは理解できる。また、日本では長らく被害者遺族の知る権利や補償がないがしろにされてきた。しかし、そうした犯罪被害者遺族の救済と、犯罪者への量刑をどう設定するかということはまったく別問題だろう。

 もし、被害者遺族の感情が理由で死刑判決が下されるのであれば、被害者が天涯孤独で親族がいない場合、どうなるのか。悲しむ遺族が少なければ殺人犯の量刑は軽く、悲しむ遺族が多ければ死刑になるのか。

 そもそも、近代刑法は、犯罪を抑止する目的からのみ刑罰を科せられるという「目的刑論」を原則としている。遺族感情によって量刑を決めるのは、罪への報いとして刑罰を科すという前近代的な「応報刑論」的考え方だ。いや、それどころか、「国家の仇討ち代行」という封建時代に逆戻りするものと言ってもいいかもしれない。

 だが、日本ではある時期から、むしろその「仇討ち代行」が刑罰の根拠となってしまった。それは、世論やメディアだけではない。司法の世界も2000年代に入ったあたりから、この「被害者感情を考えろ」という空気に押されて、死刑に前のめりになり始めた。

 その典型は、光市母子殺害事件だろう。被害者遺族の訴えがメディアで盛んにクローズアップされ、元少年の死刑を望む世論が過熱したことは記憶に新しい。犯行当時、元少年は死刑が認められる18歳をわずか1カ月超えていた。一審と二審では、1968年の永山事件(犯行当時19歳)で最高裁が示したいわゆる永山基準が考慮され、ともに更生の機会を残した無期懲役の判決が下る。ところが最高裁は「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」などとし、この永山基準を事実上破棄する新たな基準を示し、差し戻し審で死刑判決が出た。

 こうした司法の変化について、法務省刑事局元幹部は、このように語っている。

「最近の日本の刑事司法を取り巻く傾向──特にここ10年ほどの、いわゆる『厳罰化』傾向は相当に異常だと私でも思います。世界全体の流れからすれば明らかに逆行している。これは一種の揺り戻しというか、バックラッシュ現象でしょう」
「かつての検事は、私もそうでしたが、本当にどうしようもない事件は別として、できるだけ死刑求刑を避ける傾向がいまより遥かに強かった。検察側も量刑不当で控訴することに慎重だった。裁判官もそう。死刑判決にはいまよりずっと慎重に臨んだ。誰だって死刑を求めたり、言い渡したりするのは避けたい。嫌なものですから。(後略)」
「(前略)ただ、社会の閉塞感なども影響しているのでしょうが、『厳罰』を求める国民の声が極めて大きい。マスコミ報道の影響もある。検察にせよ、裁判にせよ、それは反映させざるを得ませんから。(後略)」(青木理『絞首刑』講談社、2009年)

 繰り返しになるが、本来、刑事事件は、刑法の枠組みのなかであくまで事実に基づき理性的かつ論理的に審理されるべきものだ。法や判例ではなく、熱せられた世論に押され、「被害者の感情」を考慮する求刑と判決を出す検察や裁判所の姿勢は明らかに司法の独立という原則に反するものだ。

 いや、検察や裁判所だけではない。弁護士の世界でも同様の事態が起きている。実は、今回の瀬戸内寂聴のビデオメッセージが流されたシンポの翌日の日弁連による人権擁護大会では「死刑廃止」の採択がされたのだが、この採択をめぐっては反対意見が続出。寂聴問題も採択へのカウンターとしてクローズアップされた側面もある。

 しかも、日弁連の「死刑廃止」をめぐって露わになったのは、犯罪被害者の支援弁護士たちによる反対意見の存在だけではない。多くの弁護士がやはり「被害者遺族の感情」を理由に、消極的な態度を示しているという。

 本来、国家権力に対して人権を守る役割であるはずの弁護士までが、「犯罪被害者の感情を考えろ」という空気に抗しきれず、死刑廃止を主張できないでいるのだ。いや、それどころか、最近では凶悪殺人事件の弁護を引き受けると、弁護士に非難が浴びせられるため、こうした事件の弁護に尻込みする傾向まで出てきた。

 おそらく、この状況下では、日本で死刑制度が廃止されるなんていうことはほぼ不可能だろう。それどころか、これからますます厳罰化が進んでいくはずだ。

 だが、私たちは凶悪事件を憎み、犯罪被害者やその遺族に同情を感じるその感情の動きとは別のところで、国家のあり方として、死刑制度がありかなしかを冷静に考えるべきではないのか。さらに、「死刑」はほんとうにすべての被害者遺族が望んでいるものなのか。そして、その結果はほんとうに被害者遺族を救うのか、ということも考える必要がある。

 フランスの作家、アルベール・カミュは「ギロチン」と題した論考のなかで、農家の一家族を子供もろとも殺し、アルジェリアの首都・アルジェで死刑の宣言を受けた殺人犯の処刑の現場を見に行った、自身の父親の話をしている。この犯罪を憎み、殺人犯に激しい怒りを見せていた父親は、しかし、処刑場から帰ると、しばらく寝台に横になり、突然、吐き始めたという。

〈虐殺された子供たちのことを想い浮かべるかわりに、父はいまや、首を断ち切るために台のうえに無理矢理に抑えつけられた、そのひくひく動く肉体のことしか思い浮かべられなくなっていたのだ。
 死刑というこの儀式ばった行為は、犯罪にたいする単純で実直なひとりの男の怒りをも鎮めてしまうほどに、また、その男がなんどとなく正当なものとみなしていた刑罰も、結局のところ、彼の胸をむかつかせるといった効果以外のものはなにも生まなかったほどに、まさにおぞましい行為であると信じないわけにはいかない。〉

 死刑は、犯罪を憎んだ実直な父親を、嘔吐させるだけのことしかなさない。であれば、その裁きは、社会にいかなる善良もたらすというのか。カミュはこう続けている。

〈その裁きが犯罪に劣らず非道なものであり、この新たなる殺人行為は、社会集団に加えられた攻撃を償うどころか、最初の殺人行為に新しい汚点を付け加えるものであることは明白である。このことがまさに真実である証拠に、誰も直接にはこの儀式について語ろうとはしないのだ。〉(『カミュ全集』新潮社/山崎庸一郎・訳、原文初出1957年)

 犯罪被害者やその遺族を救済し、社会がフォローアップする仕組みは絶対に必要だ。しかし、それは犯人を死刑に処し、厳罰化を進めることではない。
(エンジョウトオル)