塩野義製薬社長 手代木 功

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■「警戒心」の集団へクールに問いかけ

2004年4月、常務執行役員の医薬研究開発本部長になった。専務執行役員にまたがって、3年間やった。40代の半ばだ。

当時、研究開発本部は「塩野義大学」と言われたほど、学術話が好きな研究者が多く、事業感覚に乏しかった。急ぐべき実験もゆったりと進め、競争相手に後れをとる。経営的にみればブラックボックスで、何でそう決まったのかがみえない。逆に、研究者にとっては楽な世界で、「そんなことをやられたら、やる気が出ない」と言えば、経営陣は踏み込みにくかった。

そこへ、踏み込んだ。別に「聖域」でも何でもない、と思った。会社のカネを使ってやっていることであり、何を決めてくれてもいいが、ともかく誰がどう決めたのかだけは、オープンにしなくてはおかしい。ただ、猛烈な抵抗が予想された。でも、むしろそこが、再出発の原点になる。

直前まで経営企画部長を務め、04年まで5年間の第一次中期経営計画を策定し、「営業力の塩野義」から「創薬型企業」への転進を打ち出した。「選択と集中」を旗印に、針路からはずれる事業は整理し、各部門から強い反発を受けた。次は研究開発本部の刷新で、当然、研究開発本部の面々も、警戒心を持って迎えた。

本部は大阪市福島区にあり、前任の本部長時代から、毎週火曜日の午前に、研究開発の方向を論じる本部会議を開いていた。とりあえず、そこへ出た。議題や顔ぶれを眺め、議論の内容を聞いたら、あまりに内向きで「これでは鎖国化するわけだ」と思う。しかも、科学的な細かい点は得意だから嬉々として論じ合うが、会社としての決断となると「それは、本部長にお任せする」となる。

これでは、本部長のさじ加減次第で、白くなったり黒くなったりする。うまくいかなくても、うまくいっても、必然性がないので追跡ができない。そこで、考えた。議論の記録を、結論しか書いていなかったのを、全部残した。しかも、その過程が本部の唯我独尊にならないように、営業や広報などの部署の人間を会議に入れた。

すると、すごく居心地が悪そうで「何で、本部以外の人が会議に座るのか」との声が湧く。やはり、逆風は強い。でも、「何か恥ずかしいのか? 都合が悪いことがあるのか? ないなら、聞いてもらったらいいじゃないか」と押し返す。けっこう水準の高いことを論じているのだから、聞いて「研究開発本部会議は、水準が高いな」と言ってもらえばいいではないか、とも説く。

赴任前から、そんな絵を描いていたわけではない。「不透明なところを、透明にしよう」の一点で臨んだ。逆風が吹きつけるままやり方を一新し、いったんはゼロのような状態になったとしても、志があれば、また新しい芽は出てくる。そう信じて、研究開発領域の「選択と集中」も進めた。

その間、研究者たちがどう思っていたか、本心はわからない。最後まで「あいつ、許さない」と思っていたのかもしれない。ただ、問いかけは、クールにした。

「こちらが言っていることがダメと言うなら、それでいい。だが、反対するだけでなく、代案を出してくれ。もっといい案があれば、いくらでも検討する。ただ、自分は会社の存続と発展を考え、このほうがいいと思って提案した。代案がないのなら、とりあえず、丸呑みでやってくれ」

結局、着任前に18あった領域を、感染症、代謝性疾患(メタボリックシンドローム)、疼痛の3つに絞り込む。いずれも、他社が比較的手薄だった領域だ。無論、試験の時間管理も厳格にした。

■包括ケアへの一歩、10年先の芽に期待

感染症は、塩野義の抗生物質での強さから、捨て難かっただけではない。世界で抗生物質の価格が安くなり、多くの会社が「もう止める」と言っていたので、「それではみんなが困る」と考えた。代謝性疾患は、自社で化合物を開発し、英社が生産・販売して高い評価を得ていた高コレステロール血症治療薬「クレストール」の、国内販売を控えていた。そんなとき、その領域の研究開発はやりませんでは、理屈が立ちにくい。

ずきずきと痛む疼痛の分野は、それまでにほとんど成果はなかった。だが、社長だった塩野元三・現会長が、営業や経理・財務の出身で、研究開発分野の経験はほとんどないのに、相談したら「痛いのを痛くなくすというのは、薬屋らしいぞ」と言った。「あっ、それはそうですね」と頷いた。

研究開発本部は、約1000人の大所帯。自分の着任と同時に秘書になった女性も、大集団の中での孤立を心配してくれていた。でも、彼女によると、当初は身構えていた研究者たちも、相手の話を聴き、冷静に議論を重ね、残した枝から新たな芽が出てくるのを待つ手代木流に慣れて、新しい動きがみえた、と言う。やはり、強い逆風も、次の順風につながる。

「草木纔零落、便露萠穎於根柢」(草木纔かに零落すれば、便ち萠穎を根柢に露わす)――草や木の葉が落ちたかと思うと、すぐに根元から次の芽が出始めるとの意味で、中国・明の『菜根譚』にある言葉だ。人間も、厳しい逆風下にあっても、それは新しい上昇機運の始まりにつながる、と説く。孤立無援の状態でも、志の共有を信じた手代木流は、この教えと重なる。

本部には、マイカーで通った。車中には、いつも虫捕り網を入れていた。40代になっても昆虫採集が好きだったというより、別の理由がある。当時、長男が中学生で次男は小学生。世の中、ゲーム機が流行し、青少年をとりこにしていた。だが、手代木家では「1日に遊ぶのは30分だけ」が決まり。「屋外で遊ばない子は、大人になってから悪くなる」というのが、信念だった。

そこで、休みには息子たちを連れ出した。運動もいいが、それは学校のクラブ活動でやればいい。夏休みにどうやって外へいかせるかを考えて、虫捕りにした。山や海へ旅行も兼ねて、家族でいく。二度の米国勤務で、家族優先の考えも固まっていた。

2008年4月に社長に就任すると、半年後に米アトランタにある中堅製薬会社を買収した。社内やOBに「力が入り過ぎ」との声も出たが、つくった薬を世界で自力で販売する出城に期待した。ところが、買収決定から2週間後に「リーマンショック」が起き、世界経済は一気に縮む。買収した会社の新薬開発も止まり、赤字が続いて、塩野義の株価は急落した。

だが、「草木零落」は常に繰り返されるし、そこで妙に動かなければ、また新芽が伸びていく。アナリストらの厳しい質問からも逃げず、そこから経営改革のヒントも得て、逆風を追い風に変えた。

2015年秋、医療や介護、予防や生活支援などを一体的に提供する「地域包括ケアシステム」に対応した医療連携サポート室を、新設した。人口減が始まり、薬価の抑制もあって国内市場が成熟期に入るなか、次なる「草木零落」に備えて、一歩、踏み出した。

農業に銀行も参入するように、介護や包括ケアの分野に政府や自治体、病院経営者以外も入ってくる時代。だから、10年、20年先を見据えて、手は打っておく。

そんな話を、3カ月ごとに出す「社長メッセージ」に盛り込んでいる。10年後の芽に、期待している。

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塩野義製薬社長 手代木 功(てしろぎ・いさお)
1959年、宮城県生まれ。82年東京大学薬学部卒業、塩野義製薬入社。98年秘書室長、99年経営企画部長、2002年取締役、04年常務執行役員 医薬研究開発本部長、06年専務執行役員。08年より現職。

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(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)