『チャーチル・ファクター』(ボリス・ジョンソン著・プレジデント社刊)

写真拡大

この夏、日本では映画『シン・ゴジラ』が話題を集めた。「システムでは統御しがたい怪獣」を、一致団結して倒す。そのなかでも印象的だったのは「リーダーシップの不在」であった。あの結末は「それゆえ」のものなのか、「それにもかかわらず」もたらされたのか。判断は個々人にゆだねたいが、「危機のリーダーシップ」について考えされられたことは確かである。「難局」に直面したとき、われわれは指導者に何を求めるのか。いま再評価の機運がたかまっている田中角栄とチャーチルを題材に考えてみたい(後編/全2回)。

■エスタブリッシュメントによるゴジラ退治

「一人の存在が歴史を大きく変え得る」実例――ジョンソンの描こうとしたチャーチル像は、「『独力型』の英雄」としてのそれである。

「往年の独力型」を引きあいに出し、現存の指導者への不満を語る。このタイプの言論を、21世紀の民衆はことさら好む。たとえば昨今の日本では、ナショナリストもリベラル左派も、こぞって田中角栄を礼賛する。

「独力型」は、既存のシステムに従属しない。同時代人にとっては、まさしく「異端児」そのものだ。このため、現役で活動する「独力型」は、しばしば激しい抵抗に遭う。チャーチルは、首相に就任する前の10年間、ずっと閣僚になれなかった。彼の奔放な言動を、周囲は警戒していたのである。田中角栄も、ロッキード事件発覚後、「政治悪の根源」として非難を浴びつづけた。

「独力型」の評価は、死後しばらくすると一転する。鬼籍に入った「往年の独力型」は、あらたに「とんでもないこと」をしでかす心配はない。彼らの「組織に縛られない行動力」だけが大衆の記憶に刻まれる。

「いま、チャーチルが(あるいは田中角栄が)いてくれたら、この停滞した状況を一気に変えてくれるのに」――そういう期待に支えられ、「往年の独力型」は偶像となる。

グローバル化が進むなか、「国家」の存立基盤そのものが脅かされている。大企業はことごとく多国籍化し、「どこかひとつの政府」の統制には服さない。富裕層はタックス・ヘイブンに財を逃がして、「いま、暮らしている土地」での納税を拒む。

「国家」は衰退し、「国民」を守る力は弱体化に向かっている。福祉や教育にあてがわれる予算も細るいっぽうだ。そういう現況を受け、少なくなった「取り分」を確保しようと、「国民」は「よそ者」を蹴落としにかかる。世界各地における「過激な排外主義の台頭」にも、そうなるだけの背景はあるわけだ。

こんな「頼りない国家」を救う術を、「あの人」ならわかっていたのではないか。多くの論者がそういう期待からいま、「往年の独力型」を語る。「国家」という「システム」そのものの危機は、「システム」を動かして事を成すタイプに克服できそうにない。「独力型」に舵とりをゆだねるべきときが来た――少なくともボリス・ジョンソンはそう考えて、『チャーチル・ファクター』を書いたにちがいない。

この夏、日本では映画『シン・ゴジラ』が話題を集めた。「システムでは統御しがたい怪
獣」を、一致団結して倒す。そのプロセスを通じて、脆弱だった「システム」が再生する。1954年公開のファースト・ゴジラは、そういう枠組みで作られていた。『シン・ゴジラ』は、それを忠実に踏襲している。

原子力は、戦後日本の発展のために導入された「危険な因子」であり、その「暴走」がゴジラを生んだ。田中角栄も、ある面においてゴジラに似ている。角栄は、経済のダークサイドに手を突っこみ、政治資金を調達する剛腕。高度成長期における「必要悪」を担っていた。そして、角栄のような「汚れ役」を総理にしないことが、戦後のエスタブリッシュメントたちの「暗黙の了解」であった。角栄は「暴走」し、その禁忌を破ったのである。

■「独力型」政治家の活かし方

ロッキード事件を「アメリカによる謀略」と見る説は、現在でも根づよく支持されている(石原慎太郎の『天才』も、この立場で書かれている)。外国による介入の真偽はともかく、あの事件の際に一部の政治家や法曹がしめした「角栄への酷薄さ」は異様に見えた。エスタブリッシュメント集団による「ゴジラ退治」――おそらくそれが、あのとき行われていたことの「実態」であった。

シリーズが継続するなかで、ゴジラは「日本というシステムの守護神」になっていった。田中角栄もいま、「朽ちかけた戦後体制を蘇生させる英雄」のモデルと目され、保守とリベラル双方から称えられている。「システム」再建のために放逐した「鬼っ子」を、「システム」の危機を救う「神」として後から祭りあげる――平将門や西郷隆盛に強いたのとおなじことを、日本人は田中角栄にもやろうとしている。

チャーチルは角栄とちがい、最後まで「システム」から排除されなかった。大貴族の家系に生まれ、父も大臣級の政治家。チャーチルの出自は、エスタブリッシュメント集団の中核にあった。そのことが、彼の身を幾分か守ったのは確かである。だが、問題はそこにとどまらない。「システム」には飼いならせない「独力型」政治家の活かし方を、英国社会は心得ていた。チャーチルと角栄の運命をわけた「最大の要因」はそれであろう。

日本の「システム」は、みずからの課す「ミッション」――「必要悪」を引きうけること――の達成だけを角栄に求めた。そこから角栄が逸脱しようとすると、たちまち制裁を加える側にまわった。

チャーチルは、第2次大戦中もそれ以外の時期も、英国の「システム」を無視して暴走しつづけた。それでも英国の「システム」は、戦争という「異常事態」にのぞんでチャーチルを指導者の地位に据えた。チャーチルは、自分の「キャラクター」と「言葉」を武器に奮闘する。彼の「個」の力のみで歴史が動いたわけではないにせよ、チャーチルが勝利に寄与したことはまちがいない。ただし、彼が守ろうとしたのは「英国というシステム」ではなかった。自分のような「英雄」が活躍するにふさわしい「華麗な舞台」。それを維持するためにチャーチルは死力を尽くした

チャーチルは「いつまでも退治されず、飼いならされもしないゴジラ」である。先にふれたとおり、司馬遼太郎は「体制製造家=独力型」の末路がそろって「悲劇的」だと指摘する。しかしそれは、世界中どこにでもあてはまる原則ではない。英国人のチャーチルは、「独力型」でありながら政治生命をまっとうした。

われわれもまた、「チャーチル」に最後まで使命を果たさせる術をまなぶべきではないか。「国家」という「システム」が根幹から揺らいでいる現在、そのことを改めて痛切に感じる。それとも、「独力型」の指導者を「悲劇的な末路」に導くのは、日本社会の「不治の病」なのだろうか。

(日本文学研究者 助川幸逸郎=文)