くるり公式サイトより

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 先日、3年ぶりに『MUSIC STATION』(テレビ朝日)に出演し、オリジナルメンバーの3人でメジャーデビュー曲「東京」を演奏したくるり。今年で結成20周年を迎え、ベストアルバム『くるりの20回転』をリリースしたり、音楽ライター・宇野維正氏とともにこれまでのバンドの歩みを振り返った書籍『くるりのこと』(新潮社)を出版したりと、デビュー以来うるさ型の音楽リスナーからも絶大な支持を集め続けてきた彼らがその長いキャリアを総括する時期に入っている。

 となると、気になることがひとつある。ネット上で囁かれている、ある噂のことだ。

「くるりはブラック企業」

 なぜ「ブラック企業」という汚名を着せられているかというと、理由はあまりにも多いメンバーチェンジにある。

 現在のメンバーは結成時からのメンバーである岸田繁と佐藤征史、そして2011年に加入したファンファン(現在は育児休業中)の3人だが、ここにいたるまでに数々の人々が加入と脱退を繰り返し、現在は8期目。これまで正式メンバーとなったことのある人は前述の3人を合わせて合計8人にもおよび、サポートメンバーまで含めるとさらに膨大なリストができあがる。

 このことは本人も認識しているようで、音楽サイト「ナタリー」のインタビューでも岸田が「まあ、くるりはブラック企業とか言われてますし(笑)」と自虐的なコメントを残している。ネットではその原因に岸田のバンド運営を挙げるファンが多く、岸田自身も前掲『くるりのこと』のなかで「俺がまた自分勝手に辞めさせたみたいなことをすごくファンから言われて、ネットも炎上したりとかしたんですけど」と語っているが、本当にくるりは「ブラック企業」なのだろうか? そして、なぜくるりはこのようにメンバーチェンジの異常に多いバンドになったのか? 『くるりのこと』では、これまで詳細には語ってこなかったメンバーチェンジの真相について赤裸々に語られている。

 くるりは1996年9月、立命館高校の同級生だった前述の岸田、佐藤、そして立命館大学の音楽サークルで出会った森信行の3人で結成される。

 順風満帆に活動を続けた彼らは、まだ大学在学中の98年にシングル「東京」でメジャーデビュー。そしてそんな彼らの初めての不和は翌年、2枚目のアルバム『図鑑』のレコーディング時に起こる。その経緯を岸田はこう語っている。

「『街』のレコーディングの時に、とにかくもっくんのドラムがよくないって思って。やる気もなかったように感じたんかな。まぁ、もっくんは、やる気がある、ないってジャンルの人じゃないんだけど。(中略)で、俺らその時、躍起になってたから。普通なら考えられへんことだけど、『街』ではベーシストでもあったプロデューサーの根岸さんに叩いてもらって」(『くるりのこと』より。以下同)

 なぜ、そんな不和が起こったのか? 原因は、デビューから少し時が経ち、学生ノリからプロのミュージシャンへとなっていく過程で、自分たちの技術のなさを痛感したところから始まったらしい。岸田はこう語る。

「当時、俺ら、当たり前に全員技術が足りなかったし。メジャーって場所でやらせてもらっていたけど、プロかっつったら、まだプロじゃないっすよね。そういう段階だったからこそ、技術うんぬんじゃなくて、どんだけその曲にエネルギーをかけられるかであったりとか、どんだけエモーションを込められるかであったりとか、そういうことを一番重視してたんやと思うんですよね。もっくんって、技術的には3人の中で一番持ってる人やと思うんですよ。それもあって、何かこなすっていうか、そういう感じになっていて。多分、もっくん自身の中でもやっぱりそういう二面性みたいなもん、『わかってんねんけど、いけへん』みたいなとこもあったんじゃないかなと。そこで、もっと俺と佐藤が、バンドをうまくもっていくやり方を知ってたら違ったんだろうけど、まだヒヨッ子だったんで。感情論というか、曲に対してのモチベーションが勝っちゃったんですね」

 この状況を解消させるため、くるりは大学のサークルの先輩であったギタリストの大村達身を加入させることになるが、森と大村の相性が合わず、バランスはますます崩れていく。今度は佐藤が当時をこう振り返る。

「メンバーが3人から4人になったことで、責任感が3分の1から4分の1になったような感覚がもっくんにあったような気がして。最初のうちはそれも変わるかなって思ってたんだけど、ツアー中、待っても待ってもっていう。そういう感覚は3人の時からあったんだけど、それにいい加減待ちくたびれたっていうのが、そうなった一番の原因やと思います」

 森自身も、脱退にいたった理由についてこのように語っている。

「くるりにいた頃は、浮かれてたのかもしれないですね。もちろん自分なりには必死にやってましたけど、覚悟というか、戦っていくような感覚というのがあまりなくて。それまで音楽をやって楽しんできた、その延長線上でやっていたところはあったかもしれないです。そのことに気づいたのは、くるりを辞めて、いろんなバンドのサポートをやるようになってからなんですよ。仕事としてドラムをやるようになった時に、「あぁ、なるほど」と。当時はそんな気はさらさらなかったんですけど、やっぱりどこか2人に「のっかってた」ようなところがあったんだと思います」

 その後、03年には、アメリカツアー中に出会ったクリストファー・マグワイアがドラムとして加入。しかし、翌年には早くも脱退してしまう。パワードラマーの彼とくるりの相性は良く、今でもこの時期のくるりがライブバンドとして最高の時期だったと評する声も多い。そんな優秀なドラマーがわずか1年でいなくなってしまったことに対し、ファンからの落胆は大きかった。岸田は当時のファンの反応についてこのように語っている。

「クリストファーが辞めた後、俺がまた自分勝手に辞めさせたみたいなことをすごくファンから言われて、ネットも炎上したりとかしたんですけど、クリストファーに関しては、これはほんまに、現実的にあれ以上は一緒にやることはできなかったんですよ」

 クリストファー加入以降、ライブの出来が目に見えて向上し、順調に見えた活動の裏で、もともと私生活が破天荒気味だったクリストファーは、慣れない日本での生活が原因で精神的な安定を崩していた。そのエピソードのひとつを佐藤はこう語る。

「ライブが終わったら目立つように学ランを着て、夜の街を『おれはくるりだ!』って言いながら、女の子を探して徘徊してましたから。僕も何度か付き合わされて、ほんとしんどかった(笑)」

 こういったことが積み重なった結果、初めての武道館公演を成功させた後、バンドはクリストファーに解雇を言い渡すことになるのだが、その時を岸田はこう振り返る。

「今になってみると、『もうちょっと上手くやれたかもしれないな』という後悔はあるんですよ。慣れへん日本に海渡って来てまで『一緒にやりたい』って言ってくれた人に、俺らはどれだけのことができたのかって。やっぱり一人で日本にいきなり来たら寂しいですよ。そこを、クリストファーが本当にひどい状態になる前に、もうちょっとコミュニケーションとれてたらっていう思いはあります。バンドにいた時間は短かったけど、彼が脱退した時は、もしかしたらもっくんが抜けたとき以上にファンをがっかりさせてしまったような気がします」

 その後、固定のドラマーこそいないものの、リリースやライブを重ね、好調に見えたくるりから、またも離脱者が出る。06年の末に今度は大村が脱退するのだ。

 その時期のくるりは、クラシック音楽との融合を画策し、後に屈指の評価を得るアルバム『ワルツを踊れ』のレコーディングの準備をしていた。これまでの音楽性からガラリと変わる、その急激な変化に大村は付いて行くことができなかった。年が明けた07年2月にはウィーンでのレコーディングが予定されていたのだが、その前に今後の去就について話し合いがもたれることになった。佐藤はこう振り返る。

「繁くんの曲の作り方が、本当にこれまでと全然違ったんですよ。コード進行があってメロディを決めるんじゃなくて、たくさんのメロディからコードが決まるみたいな、そういう作り方をしてて。普通に考えたら、ギターっていう楽器がものすごく入り込みにくい曲作りで。そこでどうしたらバンドの中で自分の音が出せるやろうっていうところで、かなり追い詰められてるのがわかって。譜面からやるっていうのも、達身さんのギタリストとしてのプレイング・スタイルからかけ離れていたもんやったから。そうじゃなくても、どう考えても2月からのレコーディングは僕ら全員にとって過酷なものになるのはわかってたから、ウィーンに行く前に決断したほうがいいんじゃないかなっていう空気が、僕と繁くんにも、達身さん本人にもあったと思うんですよ。それで、プリプロをやってる東京のスタジオで話を切り出した時に、すごくすんなり『俺もそう思う』って......」

 岸田も当時の状況をこう振り返る。

「『やっぱりくるりは繁と佐藤のバンドやから』って、その時に達身さんは言ってました。でも、俺らが作る作品の順序が違ってたりとかしたら、全然違う話やったと思うんですよ。ただその時の俺らというか、俺は、完全に考え方が作品重視になっていて。あまりにもやりたいことがはっきりしていたから。考えてみれば、すごく勝手な話なんですけど」

 ここで出てくる「作品重視」という岸田の発言に、くるりというバンドがメンバーチェンジを繰り返す本質が隠れている。前出の「ナタリー」のインタビューで岸田はこのように語っている。

「ただ音楽に対するアプローチの仕方がほかのバンドとだいぶ違うからわかりにくいところはあるのかもですね。うちはモノを作るときに作品が第一なんですよね。別に僕が歌ってなくてもいいし、「こういう作品でなければいけない」っていう縛りもない。ただ思い付いて何かが動く瞬間だけに集中していて、そこに邪念は入らないようにしていますね」

 作品が自分の歌声を欲していないのなら、自分の声さえいらない──。この発想が象徴する「作品第一主義」が、通常のバンドであればある程度大事にされる「メンバー同士のケミストリー」といったものを重要視しない、くるり独自の風土を生み出した。

 くるりはこの後、11年に田中佑司と吉田省念とファンファンが同時加入し、田中はメンバー間のコミュニケーションがうまくいかなかったためわずか半年で脱退、吉田はシンガーソングライターとして独立するため13年に抜けてしまうことになるのだが、普通のバンドであればキャリアそのものが崩れておかしくない異常な状況でも、くるりはほとんどダメージを受けず、飄々とバンド活動を維持し続けている。それは、演奏者は誰でも構わない、なんなら正式メンバーの鳴らす音が入っていなくても良いとする「作品第一主義」があるからだろう。

 そういったプロセスで作品がつくられる以上、メンバーが流動的なのは必然ともいえるかもしれない。この「作品第一主義」は、森、クリストファー、とバンドの屋台骨であるドラマーが人間関係やバンド環境の問題で抜けざるを得なかった結果生まれたものなのか、そういったこととは関係なく生まれるべくして生まれた考えなのかは分からないが、くるりの音楽がオリジナルなもので、結成20年を迎えたいまでも懐メロバンドなどではなく、最新作を求められ続けるバンドである理由に、この「ブラック企業」疑惑すらもたれる人材の流動と、それを生み出す「作品第一主義」があるのは間違いなさそうだ。
(新田 樹)