日本最大のテニス専用スタジアム「有明コロシアム」に"戻ってくる"と、彼女は"ノスタルジック"な想いに襲われるのだと言う。

「ここは他のコートに比べて、もう何度もプレーしている。日本人のお客さんがたくさん来て私を応援してくれるのも、すごく嬉しい」

 スタジアムについて語るとき、本人いわく「生まれつき動きにくい」はずの口角がキュッと上がり、目じりがさらにスルリと下がる。

 両親にも「有明コロシアムは私のホーム」と宣言しているほどに想い入れの強い地で、大坂なおみは、自身初となるWTAツアー決勝の舞台(東レ パン・パシフィック・オープン)まで駆け上がった。

 戻るたびに郷愁を覚えるスタジアムではあるが、今大会でコートに立つ大坂が胸に抱いていたのは、ノスタルジーではなく、過去から学んだ教訓であり、試合で示したのは、課題を克服した姿である。

 本人の成長、過去の悪夢からの脱却、そしてチームとしての総合力――。それらすべてをコート上に描き切った今大会最高の一戦は、2回戦の対ドミニカ・チブルコワ(スロバキア)戦だ。

 チブルコワは今季のウインブルドンでベスト8入りし、8月にはトップ10にも返り咲いた実力者。身長は160センチと低いが、それを補う俊足と、いかなる状況でも最後まであきらめずボールを追う闘争心の持ち主だ。その世界12位の小さなファイター相手に、大坂は完璧とも言える「プラン」を用意し、コートに立っていた。

 その最たるものが、"サーブ"である。大坂といえば、先の全米オープンで最速201キロを叩き出した「超高速サーブ」が代名詞。しかし一方で、安定感に欠き、セカンドサーブになるとスピードが落ち、コースも甘くなる傾向がある。

 その弱点を克服すべく、チブルコワ戦での大坂は、試合前に打つべきサーブコース等のシミュレーションを行なったという。指南役となったのは、この夏から日本テニス協会女子ナショナルチームのコーチングスタッフに加わった、デイビッド・テイラーだ。オーストラリア女子代表チームの監督や、2011年全米優勝者のサマンサ・ストーサー(オーストラリア)ら多数のトップ選手のコーチを歴任してきたテイラーは、大坂に「この状況では、どこにサーブを打つべきか」という問答を繰り返し、解を見つけられるよう導いていったという。

 結果、チブルコワ戦の大坂は、セカンドサーブからでも64%の高確率でポイントを獲得。安定したサーブが試合を支配する手綱となり、第1セットを6−2で奪うと、第2セットも5−1と大きくリードした。

 しかし、勝利まであと1ゲームと迫ったこの場面で、最大の試練が彼女を襲う――。

「5−1までは緊張もなくプレーできたけれど、そこでUSオープンのひどい悪夢がフラッシュバックしちゃって......」

 そう語る大坂の顔に、安堵とも感傷ともつかぬ感情がジリジリと広がっていく。彼女の言う「悪夢」とは、今月上旬のニューヨークのセンターコートで喫したばかりの、大逆転負けの記憶。全米オープンの3回戦、世界9位のマディソン・キーズ(アメリカ)を第3セットの5−1まで追い詰めながら、大坂はそこから猛追を許し、最後は「精神的に崩壊した」と認めるほどに大きな心の傷を負ったのだ。

 その「悪夢」から3週間後の、有明コロシアム――。世界12位相手に同じスコアになったとき、彼女の胸裏を「あのとき」の息苦しさがよぎる。すると、サーブのトスが低くなり、バックハンドが振りきれなくなった。

 瞬く間にスコアは、0−40に......。3週間前の記憶に引きずり込まれた彼女は、「あのときと一緒だ。このゲームは取られる」と覚悟したという。

 このとき、ニューヨークの悪夢に絡め取られていく彼女を、「ホーム」の有明コロシアムに引き戻したのは、スタンドを埋める観客から飛び交った「なおみちゃん、がんばれ!」の声援だったろうか。突如、我に返ったかのように、彼女は過去もスコアをも忘れ去り、「目の前のポイントだけに集中し、できることは何でもやってやろう」と思ったのだという。

 すると、ネットに掛かっていたボールが、相手コートをとらえるようになる。短くなっていたサーブも、コーナーに鋭く刺さり始めた。躍動感あふれるプレーで3ポイントを連取して追いつくと、スタジアム内に破裂音と観客の感嘆の声を響かせ、センターに叩き込まれる時速192キロのエース――。最後も188キロのエースを豪快に打ち込み、6−2、6−1の圧巻の勝利を掴み取る。ファンの声援を浴び、有明で手にしたこの勝利は、悪夢を振り払った証明であると同時に、彼女がもっともランキングの高い選手から手にした金星でもあった。

 ニューヨークから引きずるしがらみを断ち切ったその先で、18歳は伸びやかに疾走する。

 3回戦では、予選上がりのアリャクサンドラ・サスノビッチ(ベラルーシ)から挑まれる難しさに耐え、第2セットでは0−5から逆転する"横綱テニス"を披露。

 準決勝のエリナ・スビトリナ(ウクライナ)戦では、第1セットを奪われながらも第2セットを競り勝ち、最後は世界20位をして「何をすればいいのかわからなくなった」と言わしめるほどの精神戦を制した。

 その大坂が「これまで経験したことがなかった状況」に直面したのが、彼女にとって初のツアー決勝戦となる、対キャロライン・ウォズニアッキ(デンマーク)戦。度重なるケガから急速に復調しつつある元世界1位は、タイトル獲得に向け並々ならぬ執念を燃やしていた。

 第1セット、一進一退の攻防から大坂がブレークし、4−3とリードした場面で、ウォズニアッキはメディカルタイムアウトを取る。足の付け根にテーピングを巻くため、相手がロッカールームに戻ったその間、コートにひとり取り残された大坂は、「これで勝利へのチャンスが広がったのかも」との期待感と、「彼女は大丈夫だろうか? 深刻なケガでなければいいけれど」との心配に襲われ、心をかき乱される。

 その乱れを、経験豊富なウォズニアッキは見逃してはくれない。相手の老獪な試合運びの前にミスを重ねた大坂は、再開後の14ゲームで4ゲームしか取れず、今大会5試合目にして初めて敗者側に身を置いた。

「重要な場面で、ミスが多すぎた」

 試合後の会見で、大坂は敗因をシンプルに総括する。さらには今回の経験を踏まえ、「準優勝は嬉しいけれど、今、わたしが考えていることは、次に同じような状況になったときには、今回の経験を生かしたいということ」と、早くも"次"に視線を向けた。

「この大会は、本当にすばらしいよ。またね!」

 ノスタルジーを覚える有明コロシアムでの濃密なる1週間を戦い終え、表彰式での大坂は、精一杯の日本語にファンへの謝意と再会の約束を込めた。

「来年は、ここで優勝したい」。その誓いを、ひそかに胸に抱きながら――。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki