ディベートを彩る新時代のコメディショー:ザ・大統領戦(14)

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いよいよヤマ場を迎えつつある大統領選は、舞台をテレビディベートへ移そうとしている。戦いの趨勢を左右するこのテレビディベートの論点を明示化するメディアとして、実は「コメディショー」の役割は大きい。なかでも2016年は、アメリカにとって「外国人」である2人のコメディアンに注目すべきだ。

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キックオフ直後のオウンゴール

9月5日のレイバーデーのキックオフから大統領選のラストスパートが始まった。11月8日の投票日当日まで、接戦州(スイング・ステイト)を中心に、候補者による遊説、テレビCMの大量投下、有権者への戸別訪問ならびに投票への呼びかけ、などの選挙戦が繰り広げられていく。基本的にはこのままノンストップで駆け抜けることになるのだが、投票日までの2カ月あまりの間、ヤマ場となるのがテレビディベートだ。大統領候補者には3回、副大統領候補者には1回が予定されている。ディベートの成果は、その都度支持率に反映され、時に大きく情勢を変えることもある。そのため9月26日の第1回ディベートには、いやがうえにも注目が集まる。

…といったところから今回は書き始めようと思っていたのだが、現実はなかなかそうはさせてくれない。むしろレイバーデー後のラストスパートでは、想定外の出来事が生じるものとどうやら運命づけられているようだ。2008年の大統領選では9月15日にリーマン・ショックがアメリカ社会を襲い、12年には投票日直前の10月30日にハリケーン・サンディがニュージャージー州に上陸した。いずれも候補者のリーダーとしての資質が試される出来事であった。

では今年はどうかというと、いきなり候補者自身のオウンゴール、自責点から始まった。9月11日にマンハッタンで開催された911追悼セレモニーで、その場に参列していたヒラリー・クリントンが突然倒れてしまった。直後には熱中症かと噂されたが、その後肺炎に罹っていたことが公表された。これをきっかけに、最近ではメディアの話題として取り上げられることがなかった、候補者2人の健康状態に再び関心が集まることになった。

11月8日の投票日の時点で、ヒラリーは69歳、ドナルド・トランプは70歳であり、2人とも、過去に最高齢で大統領に就任したロナルド・レーガンの69歳に並ぶ。つまり、候補者がともに高齢者であるという事実を人びとに気づかせてしまい、そもそもこんな年寄りに大統領を任せていいのか?という素朴な疑問を広めてしまった。ちなみにバラク・オバマは47歳、ジョージ・W・ブッシュは55歳で、大統領に就任していた。

特に、実際に倒れた映像が何度も報道されたヒラリーへの影響は大きく、事件後、彼女の支持率は下降の一途を辿り、たとえば前回も記した『ニューヨーク・タイムズ』の推計では、ヒラリーが勝つ見込みは8月下旬では9割を超えるまで伸びていたものが、9月中旬には7割を切る目前にまで落ちている。もちろん、いまだに彼女が優勢であることは間違いないが、それでもトランプが急速に巻き返してきている。その上で『ニューヨーク・タイムズ』がそもそも民主党寄りのリベラル紙であることを踏まえると、この低下傾向は侮れない。

というのも、この健康問題は、単に年寄りだから健康が不安だという事実に関わる疑問だけでなく、健康状態についてきちんと情報を公開してこなかった説明責任の方に論点が移り、そこからヒラリーへの信頼/信用に関わる疑念へと転じているようだからだ。この疑念は、むしろ彼女の支持者であるほど困ってしまったようで、どう彼女を弁護すればよいのか悩ませてしまっている。先ほどオウンゴールと記したのは、こうした余波を含めてのことだ。一部には、ヒラリーの肺炎発覚が、今回の選挙戦のターニングポイントだったと早々に論じる人も出てきたくらいだ。

その後、ヒラリーについては、彼女の医師から引き続き肺炎に関する情報が伝えられるだけで、彼女の健康状態がそもそもどうなのか、という発表はない。ちなみにトランプからもフルディスクロージャーはない。もちろん、政府要人の健康状態は外交等への影響を考えれば秘匿されて当然のものといえなくもない。だからヒラリー支持者からすれば、なぜこのタイミングで体調を崩すのか?とため息をつくしかない。それもあって、トランプともども、この問題についてはやり過ごそうとしているという声もあがっている。

そんな健康問題に焦点が当たりつつあったところで、9月17日にニューヨークで爆破事件が起こった。ニューヨークは、ヒラリーとトランプの双方にとって本拠地であるだけに、こうした事件への対処の巧拙も、もちろん今後の展開に影響を与える。トランプ陣営からすれば、この間、怒れるブルーカラーの動員を再び図るため、減税策の発表など国内経済の立て直しに焦点を当てようとしていたところで、再びセキュリティの問題に関心が戻る状況に陥っている。なかなか候補者の思惑通りには世の中は動いてくれない。

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9月15日(現地時間)、活動を再開し遊説先へと向かうヒラリー・クリントン。PHOTO: AP / AFLO

選挙ツールとしてのディベート

このように本選を目前に控えると、日々生じる新たな事件が、たとえそれが比較的小さなものであったとしても、選挙キャンペーンの戦局を変えていく。それはある意味で現実の政治の舵取りと似たものになり、一つひとつの対応を通じて大統領としての資質が試されていくことになる。メディアの反応も敏感になっていく。

ともあれ、すでにそれぞれが複雑にもつれた状況を抱えながら、2人の候補者はテレビディベートに臨むわけだ。候補者からすれば、これから開催される3回のディベートをいかにして有利に運び、戦局を優位なものにするかが最大の関心事になる。彼らにとってディベートとは、情報戦が繰り広げられる場であり、なによりも投票日までの間、日々流動的に推移する戦局を一定方向に統御するための最大のツールなのである。

もちろん、その様子を伝えるメディアの側も候補者の好きにされるがままというわけではない。テレビディベートを迎えるにあたって、当然、各種ニュースメディアが報道合戦を繰り返す。ホスト役のテレビネットワークが力を入れるのは当然として、今日の二極化した政治状況では、共和党についてはFox Newsが、民主党についてはMSNBCが、それぞれ保守とリベラルの応援団として、政策を売り込むための拡声器と化す。

そうした二極化した報道が当たり前になった今日、ユニークなポジションにあるのが、前回も少し触れたコメディショーだ。ディベートの要点をわかりやすく効果的に人びとに伝えるという点で、コメディショーが本選の最終局面で果たす役割は大きい。ディベートが始まる前に、ここで一度コメディショーについて見ておこう。

コメディショーの新時代

現代のコメディショーのブームをつくった立役者は、コメディアンのジョン・スチュアートであり、彼が1999年からホストを務めた「ザ・デイリー・ショー(The Daily Show)」がその先駆けだ。この番組は、ニューヨークに拠点をおくコメディ専門のケーブルチャンネルであるコメディ・セントラル(Comedy Central)で放送されている。

スチュアートの成功は、彼が「フェイクニュース」というフォーマットを広めたことから始まった。フェイクニュース、すなわち偽物のニュースとは、すでに報道されたニュースの内容に関するパロディ(揶揄・あてこすり)のことだが、それだけでなく、時に報道姿勢そのもののパロディをも意味する。この報道姿勢のパロディについては、報道が二極化した時代の反映であり要請でもあった。

もちろんコメディショー自体は、それこそテレビ放送の黎明期から存在し、すでに数十年の歴史をもつ。たとえば、現在、上院議員を務めるコメディアンのアル・フランケンが活躍した「サタデー・ナイト・ライブ(Saturday Night Live)」は、第1回の放送が1975年に始まり、この秋で42シーズン目を迎える。ザ・デイリー・ショーは、こうした伝統的コメディショーよりもさらに一歩踏み込んだ風刺性をフェイクニュースを通じて確立した。

フェイクニュースは、そのフォーマット上、「フェイクレポーター(偽物のなんちゃってレポーター)」が必要だったわけだが、そこから新たに人気コメディアンが誕生していった。前回触れたスティーヴン・コルベアもその一人だ。そのため、ザ・デイリー・ショーは今日のコメディショーを支えるコメディアンの養成所としても機能した。あとで紹介するジョン・オリヴァーやトレヴォー・ノアもこの番組の出身者だ。

2015年7月放送のザ・デイリー・ショーには、バラク・オバマが出演。スチュアート自身は番組の人気を背景に、アカデミー賞の司会を務めるなど確たる人気を得ている。

ザ・デイリー・ショーは、スチュアートの司会のもとで、2003年から2012年までの間、10年連続で、エミー賞(アカデミー賞のテレビ版)のコメディ部門で受賞を続けるという快挙を成し遂げている。つまり21世紀に入ってから、コメディショーといえば誰もがザ・デイリー・ショーを思い浮かべるようになったということだ。それほど時代を画した番組なのである。

念のため確認しておくと、コメディといっても、日本でよく見られる単なる「お笑い」ではない。欧米のコメディには、程度の差こそあれ必ず何らかの「風刺」が込められる。一見するとただの罵詈雑言のようであっても、その背後には、皮肉やあてこすりが込められている。ジョークもこの範疇に入る。

異なる文化的背景の人びとが集まるアメリカのような社会で、互いに相手を嘲笑の対象にしつつ、その笑いから、笑われる側だけでなく笑っている側も客体化して眺める視線を与える。その意味でコメディは極めて高度で反省的な表現活動でもある。

もっとも、前回も触れたスティーヴン・コルベアのショー(The Late Show with Stephen Colbert)は、放送しているのがCBSという地上波ネットワークであるため、ほとんどトークショーのようなものである。これは番組コードと視聴者層の縛りから来ている。対して、そのような制約が薄いケーブルチャンネルでは、一歩も二歩も踏み込んで「サーカスティック(風刺的)」な表現を連発する。

そしてその容赦のなさゆえ、選挙の際には、候補者を徹底的にこき下ろす場面も見られる。そうして、健全な批評精神が現実社会に向けられた際の出口を引き受ける。その一方で、当の辛口批評を行うコメディアンはコメディアンで、時には政治やメディアの力によって潰されるリスクも背負うことになる。和やかな「笑い」の背後で、表現を巡る真剣な戦いが繰り広げれる場、それがコメディショーなのである。

コメディアンのなかには、毎年ホワイトハウスで開催されるコレスポンデンス・ディナー(特派員の夕食会)に招待される者もいるが、そうして政治家やジャーナリストとの間で微妙な関係を保っている。この事実が示すように、コメディアンはジャーナリズムを構成する一部とみなされている。

ところでいま見たように、コメディショーが変貌する上でケーブルチャンネルが果たした役割は大きい。ケーブルが登場してから、文字通り、繁華街のコメディハウスに通うような形で、家庭での視聴に向けた「舞台」が用意されたからだ。

その上でケーブルは、アメリカの政治や報道においても重要な役割を果たしている。

コメディショーがいまのようになった背景には、Fox Newsが、あからさまに共和党寄りの、党派的な保守のニュースチャンネルとして1996年に登場したことがある。その報道姿勢を受けて、同じ96年に始まったMSNBCも徐々にリベラル色を強め、民主党支持のニュース専門チャンネルへと変わっていった。そのためMSNBCも、リベラルの政策を推す点でFox New同様、党派的でその分偏向したメディアであることは変わらない。

そこで、もともとリベラル側にあった「健全な批評/批判精神」を体現するものとして浮上したのが、ジョン・スチュアート率いるザ・デイリー・ショーだった。99年に彼がホストを務めるようになって視聴率を急速に伸ばしていった。

デイリー・ショー以後のフェイクニュースのフォーマットは、ケーブル以後、報道がともすれば二極化している状況そのものを、むしろ批評的に捉えるものとして人気を博した。その意味で、一段高い視点からの「メタ報道」ないしは「メタニュース」といえる。裏返すと、そのような「メタ報道」が普通に番組として成立してしまうくらい、政治だけでなく報道もまた、知らないうちに二極化してしまったということだ。

昔のように、ニューヨークから放送される東部的でリベラルに傾斜した報道が、権威ある正統な報道として、つまり「正しい」報道として無条件に受け止められる時代は、Fox Newsの登場とともに終わってしまった。さらにケーブルに続いたインターネットによって、二極化だけでなく多極化が進められてしまった。そのような混沌とした状況において、徐々にメタなポジションを取っていったのが、コメディ・セントラルのザ・デイリー・ショーだったのである。

「The Late Show with Stephen Colbert」(CBS)の2016年7月放送回に出演したジョン・スチュアート。かつてザ・デイリー・ショーをともにした盟友に絡みまくる。

2人の異郷人

こうしたコメディショーの変遷を受けて、現在、注目を集めるコメディアンが、ジョン・オリヴァーとトレヴァー・ノアだ。それぞれ自分のコメディショーをもち人気を集めているが、ともにザ・デイリー・ショーの出身であり、そして、2人ともアメリカ人ではないのである。

ジョン・オリヴァーは1977年生まれのイギリス出身であり、現在、HBOで「Last Week Tonight with John Oliver」のホストを務める。HBOはアメリカ随一のケーブルチャンネルで、近年は「ゲーム・オブ・スローンズ」などのドラマシリーズでエミー賞を立て続けに受賞し、映像文化の中心の一角を占めるまでになっている。オリヴァーのショーも、コメディ部門のエミー賞を、今年、受賞している。

一方、トレヴォー・ノアは1984年生まれの南アフリカ共和国(南ア)出身であり、2015年にジョン・スチュアートが降板したのち、ザ・デイリー・ショーを引き継いだ。ノアの名を冠した「The Daily Show with Trevor Noah」として、引き続きコメディ・セントラルで放送されている。2人とも、フェイクニュースのフォーマットを用いながら、それぞれの個性を反映した番組を生み出している。

ジョン・オリヴァーは、イギリス訛りの強い英語で、イギリス人特有のあてこすりを伴う、もったいぶった口調で大仰に語る。しかしその多くが、真っ当な正論なのである。一昔前の弁士のような印象だ。

たとえばオリヴァーの番組では最近、今年のアカデミー賞受賞作である映画『スポットライト』を引き合いに出しながら、地方紙による報道が、一次ソースとしてどれだけ重要かを示すパロディを放送した。そうしてインターネット時代に入り、経営的に劣勢に立たされている地方紙の擁護に回っている(ちなみにアメリカでは全ての新聞が地方紙である)。

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ジョン・オリヴァーの「Last Week Tonight with John Oliver」は、「ヴァラエティ・トークシリーズ」部門などで2016年エミー賞を受賞。PHOTO: AP / AFLO

『スポットライト』では、ボストンのカトリック教会で長らく隠蔽されてきた、神父による児童への性的いたずらが告発されるが、その告発は、地元紙である『ボストン・グローブ』の調査報道チーム(「スポットライト」欄チーム)の執拗なまでの、息の長い取材姿勢があればこそ実現したものだった。オリヴァーはこの点を強調する。

ジャーナリズムは、インターネット時代になり、「キュレーション」や「ソーシャル」という名で読者の情報ニーズに応えることでマネタイズを図るサイトばかりが登場したが、彼らは基本的にデリヴァリー業に過ぎず、彼らが見繕うニュースは依然として地方紙が足で集め検証したものである。つまり、ニュースという生態系のなかで地方紙の取材機能は一次情報源として不可欠のものである。

こうした内容を、まさに『スポットライト』を模した状況で、彼らが報道姿勢を放棄して、人びとのニーズに応えるだけの情報収集業になったらどうなるかを、コメディショーらしく、面白おかしく、しかし風刺的に描いている。そうした内容を、時代がかった口調で大真面目に力説するオリヴァーの姿がまた笑いを誘う。イギリス的なユーモアが漂っている。

一方、トレヴァー・ノアは、南アでの生活経験をうまく活かしている。今年の場合であれば、たとえばトランプによって独裁が始まるのでは?という社会的不安に対して、いやこんなことは序の口で、なぜなら世界では軍事独裁政権は当たり前でアフリカを見てみなよ、という言い方で、ブラックジョークとして切り返している。

ノアはしばしば、自分の生い立ちについて語るのだが、その話がまた民族的に複雑な陰影を帯びている。父はスイス人、母は南アの黒人であり、彼はその2人の間で混血児として生を受けた。しかし彼が生まれた当時の南アには、アパルトヘイト(人種隔離政策)が存在し、白人と黒人は社会的に分断され、婚姻も認められていなかった。そのため幼少時の彼は、人の目を避け、極力隠れて暮らしていたという。そんなノアにとって、アパルトヘイトを撤廃させたネルソン・マンデラは文字通りの英雄であった。ノアはしばしば、彼にとってコメディアンの師はマンデラであったと語っている。マンデラのユーモアには何度も心を救われたからだという。

そんな経歴をもつ人物が、アフリカでの体験を引き合いに出しながらトランプについて語るのだから面白い。彼の話を聞いていると、「笑う」ことの意味そのものまで問いただされているように思えてくる。

ジョン・スチュアートは2015年、ザ・デイリー・ショーのホストをトレヴァー・ノアに引き継いだ。同年12月の放送回で「カムバック」したが、自身はHBOと4年間の独占契約を結んでいる。

ウェブ時代のコメディショー

いま見たように、フェイクニュースによってコメディショーの新時代を築いたジョン・スチュアートの代表的後継者は、オリヴァーにせよ、ノアにせよ、いずれもアメリカ人ではない。この事実は、もっと注目されてよいだろう。なんだかよくわからないうちに煮詰まってしまった今年の大統領選に対して、文字通り「笑い」飛ばして正気に戻る役割を担うのが、彼らのようにアメリカの外からやって来た、異郷者のコメディアンなのだから。アメリカの他者である彼らが、混沌とした大統領選の意味や意義を切り取ることになる。

その上で、彼らのようなアメリカの他者による風刺を、当のアメリカ人たちが見て笑う、という構図自体、情報や報道が簡単に越境する、インターネット以後のジャーナリズムのあり方を示唆しているようには見えないだろうか。

その意味では、今後彼らが、前回言及したようなAlt-Rightに対してどのような語りを披露するのかは興味深いところだ。Alt-Rightを巡る話は、民主党全国委員会(DNC)のハッキングとあわせて、2016年大統領選において、ITが選挙戦を活性化させる道具であるだけでなく、選挙キャンペーンそのものを脅かす存在となりうることを明らかにした。ITが「希望」だけでなく「脅威」にもなりうることが分かった。

少なくともその二面性があることが、アメリカ大統領選を通じて、アメリカのみならず世界に対して明らかにされたといえる。今年の大統領選はそのような転回点として記憶されるのかもしれない。そして、それが実際にどのように記憶されるのか、その記憶の中身のカギを握るのが、目の前にある時流を一歩引いて批判的に切り取るコメディショーなのである。そう思うと、アメリカの他者であるオリヴァーとノアが、この先行われる3回のディベートを一体どのように斬ってくるのか、楽しみでならない。