熱い男だった!

 誰からも兄貴のように頼られる存在だった。そして、いつのころからか「番長」と呼ばれていた。

 ハマの番長こと三浦大輔がマウンドから去ってゆく。

 9月20日の引退会見では、ファンのことを聞かれ涙ぐんだ三浦。最後まで、熱いハートの直球勝負でファンを思いやった。

 その反面、マウンドでは緩急を使った巧みな投球術と絶妙なコントロールで打者と向かい合う、緻密で繊細な投手でもあった。

 三浦は大洋に入団以来、24年間ファンに愛され、ファンを愛した。そんな三浦の野球人生を阪神ファン目線から振り返ってみる。

※野球の見方が変わるスマホマガジンでニュースやコラムが読み放題!

■ドラフトで指名しなかった阪神の痛手

 1991年ドラフト6位で横浜大洋ホエールズから指名を受けた三浦は、「6位では大した選手ではない」と自らも語っているように、ドラフト前に注目を浴びることはなかった。

 しかし、三浦を幼少期から注目し、その才能に気づいていたのが、阪神タイガースで活躍した岡田彰布だった。

 三浦の実家が大阪・玉造で花屋を営んでいることもあり、同じく玉造で育った岡田は、三浦を幼少のころからかわいがっていたという。三浦にとって岡田は野球人として憧れの人であったに違いない。

 1991年ドラフトの際、岡田は球団に三浦指名を提言していたとも聞く。しかし、その願いはかなわず、阪神が三浦を指名することはなかった。

 ちなみにこの年は、イチローがオリックスに、金本知憲が広島に指名された年だった。

 三浦といえば、後に“虎キラー”と呼ばれ、阪神相手に勝ち星を積み重ね、虎ファンにとっては天敵ともいえる存在であった。

 ドラフトで指名を逃したことが、阪神にとっては後々大きな痛手となったことはいうまでもない。

■三浦の将来に少なからず影響を与えた岡田監督の退任劇

 再び三浦が縦じまのユニフォームを着る可能性が高まったのが、2008年オフだった。三浦は横浜ベイスターズからFA宣言。阪神が獲得に名乗り出たのだ。

 2008年当事、阪神の監督だったのが岡田監督。この年のシーズン序盤、阪神はペナントレースを独走していた。しかし夏以降、失速。代わって巨人が破竹の勢いで連勝を重ね、13.5ゲーム差を覆し、リーグ制覇を成し遂げる。

 その責任を取る形で岡田監督は退任、この退任劇が三浦の決断に大きな影響を与えた。

 幼少期からの憧れだった岡田監督を胴上げしたい。阪神への移籍の思いには、元々、そんなところにあったのかも知れない。

 もちろん、FA宣言には横浜球団への強いメッセージが込められていたのも事実だろう。

 「このままではいけない! 横浜を強くしたい!!」という思いが三浦を突き動かした。

■何よりもファンの心を大切にした三浦大輔

 三浦が引退会見に際して発表した手記によると、残留か移籍かの確率は50パーセント!

 この数字を見れば、三浦がいかに悩み抜いたかがわかる。

 阪神が三浦獲得に名乗りを上げたときは、岡田監督は退任していた。しかし、数年で復帰するのでは? という噂も持ち上がってはいた。

 横浜ファンは誰もが三浦の残留を強く願った。三浦のブログには多くのファンからの心のこもったメッセージが溢れていた。

 小さいころからの夢を実現するために移籍に踏み切るか、ファンの気持ちに応え横浜に残留するか。

 何よりもファンを大切に思う三浦は残留を決断する。

 引退会見でファンを思い涙ぐんだ三浦の姿から察すれば、今となっては三浦の出した答えが、正解だったことは明白だ。

 熱いハートを持った三浦のマウンドでの勇姿は、横浜ファンだけでなく、多くの野球ファンの心に刻まれているに違いない。

まろ麻呂企業コンサルタントに携わった経験を活かし、子供のころから愛してやまない野球を、鋭い視点と深い洞察力で見つめる。「野球をよりわかりやすく、より面白く観るには!」をモットーに、日々書き綴っている。【関連記事】