『毒! 生と死を惑乱―「薬毒同源」の人類史』(船山信次/さくら舎)

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 毒は化学の分野だが、哲学的な要素も含んでいる。例えば、農薬の毒性を恐れて無農薬野菜を求める人が、野菜自体の毒素には無関心だったりする。また、工業的に精製された塩や人工甘味料を嫌い、天然でなければ危険とさえ云う人が、天然のフグや自生している毒キノコを好んで食べるということはないようだ。毒を毒だと思うから、毒になるのだろうか。我思う、ゆえに毒あり。

 そんな命題に、『毒! 生と死を惑乱―「薬毒同源」の人類史』(船山信次/さくら舎)の著者は「『毒』も『薬』も存在せず、存在するのは『生物活性物質』と呼ばれる『化学物質』です」と明言している。生物活性物質とは、「生命体に何らかの作用を有するもの」のことだそうで、害のあるものであれば「毒」であり、有用なものであれば「薬」だという。この二面性を著者は、薬食同源ならぬ「薬毒同源」と呼び、本書のキーワードにしている。

 ヒトと「毒」の関わりを振り返ると、紀元前399年に古代ギリシャの哲学者ソクラテスが処刑されたさいにはドクニンジンから抽出された神経毒コニインが使われ、これは手足の末端から麻痺して最後まで意識がしっかりしたまま死ぬこととなり、ソクラテス自身がこの死に方を選んだとされる。毒の特性までも利用していた点から、ヒトが当時すでに洗練されたかたちで「毒」を理解していたことを示していると著者は云う。

 反対に毒の歴史の中には、薬と信じられていたものが実は毒だったという悲劇もあり、古代中国では水銀化合物が不老長寿の妙薬と信じられ、それを求めた歴代の皇帝は若死にしている。日本においても、752年に開眼(かいげん)した奈良の大仏は、金を水銀に溶かしたものを表面に塗り、熱で水銀を蒸発させることで金メッキを施していたため、作業に従事した人びとの健康が損なわれていた。著者は、このことについて「悪意による毒殺でも、善意による仏様づくりでも、水銀はへだてなくヒトを侵したはずです」と述べている。

 一方、ヒトは毒さえも楽しんできた。料理にも使われるワサビやトウガラシといった辛味成分のある香辛料は、防虫効果や殺菌効果があり食料の腐敗防止と保存に役立つのと同時に、本来は純粋な痛みである辛味をヒトは味覚の一つに取り入れている。ワサビとカラシは原料となる植物が異なるものの、主成分は同じであることから、著者は納豆にワサビを入れて食し、家族から奇異な目で見られているのだとか。某グルメ漫画の影響もあり、刺し身を食べるさいには、ワサビを醤油に溶かずに刺し身にのせて食べるのが広まったが、魯山人が醤油にワサビを入れると「醤油の味が良くなる」といっていたことを引き合いに著者は「最良の食べ方は刺し身の上にワサビをのせ、ワサビを溶いた醤油につけて食べることではないか」と提言している。

 しかし、なんといっても毒で恐ろしいのは、化学兵器や生物兵器として使われることだろう。本書によれば人類最初の化学兵器は、空中窒素固定法を発見しノーベル賞を受賞したドイツ出身のユダヤ人、フリッツ・ハーバーが開発した毒ガスだそうだ。のちに毒ガスにより多くのユダヤ人が虐殺されたことを考えると、なんとも皮肉めいたものを感じる。

 毒の中に薬を発見し役に立てる知恵を持ちながら、その毒を武器として悪用するヒトについて著者は、ヒトが「大量絶滅の原因生物」になりはしないかと危惧し、「毒はヒトの可能性?」と読者に問いかける。そして、「ヒトとは何か? 毒とは何か? 薬とは何か?」を考え続けることが必要だと語っている。ソクラテスが、無知を自覚している者こそ賢者であると解釈していたように、考えることをやめてはいけないのだと自戒しつつ、夜食の買い出しに行こうと思う。ワサビ入り納豆の話を読んでいて、腹が減ったんである。

文=清水銀嶺